| 誕生翌年の長保2年(1000年)4月18日、親王宣下を受けたが、同年末、2歳で母后を失った。 |
| その後、母后の末妹(御匣殿、道隆四女)が母代として宮中で親王とその姉妹の脩子・媄子両内親王を養育した。 |
| しかしながら、御匣殿も程なく没したため、父帝の配慮でまだ子がいなかった中宮彰子に親王の養育が託されることとなり、他の姉妹とは引き離されて、彰子の局飛香舎に移された『権記』長保3年(1001年)8月3日条によれば、「漢明帝令馬皇后愛養粛宗之故事」(後漢の明帝が馬皇后に生さぬ仲の粛宗を養育させた故事)を藤原行成が天皇に奏上し、天皇がそれを聞き入れて養子縁組が実現したという。 |
| 長保3年(1001年)11月13日、同所にて着袴七五三を参照。 |
| 同年、天皇側近の藤原行成が親王家の勅別当に任命された。 |
| 中宮彰子は親王を愛情を込めて育てたが、その父道長においては全く別の意味で親王に奉仕していた。 |
| 道長はかつて親王の外舅伊周・隆家兄弟を失脚させた張本人であり、親王の生母定子にもその生前に数々の非礼を働いていた例えば、長保元年(999年)8月9日定子が敦康親王を産むために内裏を退出したのだが、当日道長は宇治の別荘へ公卿連を引き連れて遊びに行ってしまったため、定子の内裏退出を取り仕切る公卿がいない状況であった(結局は中納言の藤原時光が病気・物忌にかかわらず参内し退出を取り仕切った)。 |
| 彼にとって、敦康親王はあくまで彰子に皇子誕生がなかった時の保険当時、彰子は入内していてもまだ10代であり、藤原公季や藤原顕光の娘も入内していた。 |
| そのため、このまま彰子に男子が生まれず、他の妃に男子が生まれた場合には、道長は父藤原兼家系の血統を受け継ぐ唯一の男子皇族である敦康親王を擁立して対抗する以外に選択肢はなかったのである。 |
| に過ぎず、そのため、寛弘5年(1008年)9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれるとたちまち道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら外孫敦成親王の立坊・即位を望むようになる。 |
| 寛弘7年(1010年)1月29日、伯父伊周が失意のうちに薨去。 |
| 政治力を持たなかったとはいえ、正二位准大臣の高位にあった伯父の死は、もともと後見に恵まれない敦康親王の立場をさらに薄弱なものにした。 |
| 同年7月17日、親王は道長の加冠により元服し、三品大宰帥に任ぜられた。 |
| 翌寛弘8年(1011年)6月2日、一品に叙せられ三宮に准ぜられた。 |
| これに先立ち、5月27日、譲位を考えていた一条天皇は敦康親王立太子の可否を親王家別当の行成に問うたが、行成は文徳天皇の惟喬親王の例を引きながら、執政者道長の賛成が得難く政変の可能性まであるとした行成は同時に老齢に及んで即位した光孝天皇と承和の変で廃太子となった恒貞親王の例を挙げて皇運があれば敦康親王に皇位が巡る可能性があるとも述べている。 |
| 上で、親王の母后の外戚家高階氏が伊勢の大神宮に憚る所あり定子・伊周の母方の高祖父(曾祖父の父)である高階師尚は、実は伊勢神宮に仕えていた斎宮恬子内親王と在原業平が密通して出来た子とする説(『尊卑分脈』)があり、当時から知られていた。 |
| と言い、極力諌止した関口力は行成が摂政藤原伊尹の孫でありながら幼くして孤児同然になった経歴を挙げ、「経験的に体得した現実主義的哲学に基づく親身な忠告」であり、必ずしも道長に迎合したものとは言えないと指摘する。 |
| また、行成は敦康親王が亡くなるまでその家司を務め親王を庇護している(関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年)ISBN978-4-7842-1344-3P37-38及び157-161)。 |
| なお、その前に一品の位を受けたのは前年に薨去した為平親王(安和の変で皇位継承から排除)であった。 |
| 一条天皇はまた、譲位の対面において東宮居貞親王に敦康親王の優遇を要求し、これに対し、東宮は「仰せなくとも、奉仕すべき事」と返答した。 |
| それほど敦康親王が皇太子の人選に漏れたことは理不尽で、慰撫が必要だと誰の目にも明らかであった。 |
| 実際に三条天皇代、親王の参内が行われるなど(『小右記』長和元年7月22日条)、三条天皇は親王の処遇に留意している。 |
| 『栄花物語』は彰子が一条の後継者に敦康を推したのを道長に反対されたためであったとし、『権記』は一条譲位の件を東宮居貞(のちの三条天皇)に伝えるのに彰子の直廬の前を素通りにした父道長からの隔意を彰子が感じたためであったと見る。 |
| 真実は不明ながら、道長・彰子礼賛の激しい『栄花物語』よりも、一条の側近として公事に関与した行成の書き残した『権記』の史料価値がはるかに優ることは明白である。 |
| 敦康親王は『大鏡』に「御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記され、その優れた才華・人品は当時の公卿日記にも詳しい。 |
| 父もこの親王を愛しむ心深く寛弘2年(1005年)11月13日、飛香舎における親王の読書始に際し、天皇は密かに渡御、さらに儀式の最中に屏風を押しのけ、その様子を覗いていたという『小右記』当日条の記事がある(「密々主上渡御件舎、(中略)講詩間、主上密排屏風」)。 |
| 『権記』にも、天皇の勅旨を受けた藤原行成が親王のために奔走する記事が多い。 |
| 、ぜひ皇太子にと思ったが、道長の意向を憚りついに実現できなかった。 |
| 后腹の第1皇子が立太子できなかったのは異例のことで天皇制が成立したとされる天武朝以後、奈良・平安時代を通して、天皇の正妻所生の長子は、実に16人中14人が立太子している。 |
| 幼児期に夭折したため立太子できなかった敦文親王をのぞけば、それは敦康親王以外の全員であり、敦康は立太子できなかった后腹の第1皇子としては、後にも先にも唯一の例となった(倉本一宏『一条天皇』(人物叢書、吉川弘文館、2003年)ISBN4-642-05229-1P192-193)。 |
| 後世、敦康が非常に不吉な例とされたのも肯ける。 |
| 、世人は密かに、不運な親王に多大な同情を寄せたという親王の優れた資質は、当代きっての才子を自負してめったに人を賞賛しなかった藤原公任をして「帥宮(敦康親王)才智太朗(ハナハダアキラカ)、尤足感歎、足感歎」と言わしめた(藤原実資の日記『小右記』長和2年9月23日条、時に西暦1013年で親王は満13歳)。 |
| 同じく『小右記』寛仁2年12月26日条によれば、敦康親王の喪中にもかかわらず明年の朝拝および二宮大饗等を強行しようとして、康保年中の式明親王の例を引き合いに出す禅閤道長に対して、実資は「式部卿親王(敦康親王)甚無止(甚だやんごとなき)、彼式明親王尤劣者」と言い切り、朝拝と大饗の停止を是としたという。 |
| また『大鏡』は、敦康親王が「冷泉院の宮たちなどのやうに、軽々におはしまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし」と言っている。 |
| すなわち「親王に冷泉院の宮たち冷泉院の第3皇子為尊・第4皇子敦道の両親王。 |
| ともに好色で知られ、和泉式部との身分不相応の恋愛で世の謗りを受けたのような軽々しいところが少しでもあったら、世間の同情もさほどでなくて済んだものを」という意味である。 |
| このように、藤原実資や『大鏡』の作者(不詳だが、道長の息子能信か、外孫村上源氏に近い人であったとみえる)のような敦康親王の外家である中関白家を快く思っていなかった者すら、親王に対する書き方は一貫して哀惜の念に満ちている。 |
| 長和年間の敦康親王は、自邸において作文会・歌合・法華八講を催したり、大井河に遊覧したりするなど、ひたすら風雅の道に生きた。 |
| 長和2年(1013年)12月10日、中務卿具平親王の次女を娶る。 |
| 長和5年(1016年)1月29日、式部卿に転じた。 |
| 寛仁2年(1018年)12月17日、にわかに発病し、出家の後、薨去した。 |
| 親王は道長の嫡男摂政頼通と親しく、相婿となり家を共にしていた親王妃は婚姻前には一時頼通夫妻が養育していたともいい、婚儀に際して一切を頼通が取り仕切り、その室礼などは甚だ「過差」(贅沢)であったと『御堂関白記』に見える。 |
| 薨去後、親王妃は出家し「南院の上」とよばれ、実娘嫄子よりも長生きしたらしいことが『栄花物語』よりうかがえる。 |
| 、残された一女は頼通・隆姫女王夫婦に引き取られた。 |
| のちに後朱雀天皇に入内する嫄子女王である。 |
| 余談だが、寛弘2年(1005年)3月27日、7歳になった敦康親王が初めて(公式に)父帝にまみえる時に行成が書いたという「敦康親王初覲関係文書」があり、皇室の御物として伝来している。 |