| 曹爽の没落後、文欽をなだめるため前将軍に昇格させる措置がとられた。 |
| 後に揚州諸軍事に昇格した諸葛誕に代わって揚州刺史に任命された。 |
| 文欽は、曹爽亡き後の不安定な立場に、内心常に危惧の念を抱いていたが、揚州の軍事権を握っていた諸葛誕とは互いに憎み合っていた為に謀叛の相談をする事は無かった。 |
| 250年、呉に対して偽の降伏の使者を送ったが、朱異に看破され失敗した(『三国志』呉志「朱桓伝附朱異伝」)。 |
| 253年、呉の諸葛恪が大軍を率いて侵攻してきた際には、前年の東興での敗戦により豫州へ転出した諸葛誕に代わって揚州諸軍事となっていた毋丘倹や合肥新城の守将の張特らと共にこれを迎撃した。 |
| 数ヶ月の間、諸葛恪は張特らが守る合肥新城を力攻めにしたが、攻め落とす事が出来ないばかりか、疫病により多くの兵士が死去した。 |
| 魏の太尉の司馬孚が20万の兵を率いて東征すると、7月、諸葛恪は合肥新城の包囲を解いて撤退した。 |
| 『晋書』景帝紀によれば、司馬師は文欽に精鋭を率いて呉軍の退路を押さえさせ、毌丘倹をその後詰めにまわした。 |
| 退路を失うことを恐れた諸葛恪は退却しようとしたが、そこへ文欽が撃って出たため、呉軍は敗北を喫した。 |
| 正元元年(254年)、朝廷の実権を握る司馬師は李豊・夏侯玄らを処刑し、皇帝曹芳の廃立も決行した。 |
| 司馬師の専横に不安を覚えていた毋丘倹は文欽に対して打ち解けた態度で臨むようになり、文欽も中央に捕虜や戦功を水増しして報告して認められなかった私怨もあり、毋丘倹と結託していった。 |
| 正元2年(255年)正月、毌丘倹と文欽は5・6万の兵力を動員して反乱を起こした。 |
| 西方の項城に進み、文欽は城外で遊軍となった。 |
| 司馬師はただちに追討軍を率いて胡遵や諸葛誕・王基といった州郡の兵士を動員し親征してきた。 |
| 毌丘倹と文欽は項城に釘付けとなって寿春に戻ることもできず、なすすべもなかった。 |
| 司馬師が楽嘉に別働隊を送り敵を誘わせると共に、自らも楽嘉に軍を進めた、文欽は楽嘉方面の迎撃にあたった。 |
| 子の文鴦が楽嘉で奮戦し司馬師を追い詰める活躍をしたが(『魏氏春秋』)、文欽自身は期限に間に合わずに敗れ、司馬師の大軍の前に逃走した。 |
| 元曹爽の部下の尹大目は陣中での司馬師の病状が悪化したことを文欽にそれとなく伝えようとしたが、文欽はそれに気付く事ができなかった(『魏末伝』)。 |
| 文欽は寿春を狙って北上していた呉の孫峻・呂拠らの軍と合流、寿春入りを目指したが、寿春が既に諸葛誕に占領されていたため失敗、そのまま呉へと亡命した(『三国志』魏志「諸葛誕伝」)。 |
| 呉においても文欽は心を抑え他者に遜る事ができなかった為に、呉の武将である朱異を始めとする諸大将全部から常に憎悪されていた。 |
| 但し、呉の実権を握る孫峻には信任され、仮節・鎮北大将軍・幽州牧・譙侯に任命された。 |
| 256年、孫峻に北伐を勧め、呂拠・朱異・劉簒・唐咨らと共に先遣隊を率いて北上した。 |
| 孫峻が急死し孫綝が継ぐと、これに不満な呂拠は非難の上奏をした。 |
| 文欽は一度はこれに同調したが、孫綝から呂拠追討の命令を受けるとこれに応じ、呂拠を滅ぼした。 |
| 257年、毋丘倹に代わり揚州の都督に復帰していた諸葛誕が司馬昭を討つため反乱を起こすと、呉への臣従を表明した諸葛誕の要請を受けて呉の将軍全端・全懌・唐咨とともに諸葛誕の援軍に赴いた。 |
| 文欽らは魏軍の包囲を突破し、諸葛誕と共に寿春城に立て籠もった。 |
| しかし司馬昭の包囲陣が二重三重に取り囲まれたため、呉からの後続の援軍が途絶え、城中に孤立することとなった。 |
| 籠城は翌258年になっても続いた。 |
| 文欽らは攻城用の兵器を持ち出してまで包囲を脱しようとしたが果たせなかった。 |
| そうこうしてるうちに食糧が尽きてしまった。 |
| 諸葛誕とは魏にいた頃からいがみ合っており、唯計略上協調していただけであった為、事態が急を告げると互いに猜疑心を抱き合う様になった。 |
| 作戦を巡る意見の対立から、最終的には怒った諸葛誕によって殺害されてしまった。 |
| その死は魏の人達を喜ばせたが、子の文鴦・文虎が直後に魏に帰順し諸葛誕攻めに加担したことと、司馬昭が降伏者に恩徳を与える方針をとったため、文欽の遺骸の収容と故郷への埋葬は許されたという。 |