| 横浜大洋となった1978年から、口ヒゲをたくわえたいかつい風貌がトレードマークで、大洋ファンのみならず他球団のファンからも「ヒゲの斉藤」と呼ばれ記憶された。 |
| なお入団当初は眼鏡を装着していたが後にコンタクトレンズに切り替え、引退後は眼鏡着用に戻っている。 |
| プロ野球史上で唯一、100勝100セーブをマークしながら優勝経験のない投手である。 |
| そのためか、1998年にコーチとして優勝の瞬間を迎えたときは、現役選手と同じくらい喜んでいた。 |
| 1992年に巨人に在籍していたロイド・モスビーに顔が似ていることを指摘され、かなり気にしていた。 |
| 大学時代はサングラスを着用して登板していたことがある。 |
| これは大学野球で対戦した一学年上の中畑清の影響によるもの。 |
| ただし中畑は三塁手でデーゲーム時の眩しさを避ける意図があったが、斉藤は単なるファッションとして真似しただけだった。 |
| 現役時代から「怒らせたら恐い」ことで有名であった。 |
| それは現役を離れてからも同じである。 |
| コーチ時代、横浜の投手・五十嵐英樹が巨人の吉原孝介に危険球を与えた試合では、大乱闘に発展。 |
| その後乱闘自体は何とか静まったものの、本体とは関係無いところで巨人の井上真二に対して斉藤が激怒。 |
| 今にも殴ろうとしていたため、横浜の波留敏夫、秋元宏作、井上純が3人がかりで必死で止めた。 |
| 金網に押し付けるようにして止めていたが、波留が一瞬目を離した隙に再び襲い掛かろうとしたため、またもや数人で止められている。 |
| この場面は珍プレー好プレーで傑作とされ、何度も流されている。 |
| ちなみに、何故斉藤が井上真二に激怒したかは不明である。 |
| また1998年に日本テレビの番組である「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」の企画「生ダラ日本シリーズ」ではサダーズのメンバーとして登場。 |
| 若菜嘉晴とのバッテリーを、畠山準をはじめナイン総出で「ヤクザの草野球チーム」や「ピッチャーとキャッチャーが、組関係の人みたい」とヤジられた事に激怒して、ベイスターズの選手のいるベンチにボールを投げつけた事もある。 |
| マウンドでは恐い斉藤であったが、ベンチに戻れば穏やかであったとされる。 |
| 記者の質問に関しても、斉藤の返答が記者に分かりづらかったり、理解できないようであれば、何度でも答えてくれると言うことで、番記者には好評であった。 |
| デニー友利は、ルーキー時代には斉藤に相当厳しくされたようで、「もう、何でこんなに殴られないといけないのっていわれるくらい殴られた。 |
| 本当に怖かった」と週刊ベースボールのインタビューで語っている。 |
| もっともそのインタビューでは斉藤のことを「怖い兄貴」と表現しており、裏ではその分フォローされることも多かったと思われる。 |
| 川崎時代に大洋に入団した選手の中で、横浜のユニフォームを着るまで現役を続けたのは斉藤ただ一人である。 |
| 600試合登板を果たした1993年10月20日、すでに引退を表明していた斉藤は試合前からユニフォーム姿で横浜公園内に現れ、若手の加藤将斗とキャッチボールをしたり、通りすがるファンからのサインや握手に応じた。 |
| 2001年からプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスに参加。 |
| 2002年〜2003年シーズンには同リーグのMVPに輝いている。 |
| また、マスターズリーグでは極稀にみせる背面投げ(中日の小川健太郎投手が王貞治選手を抑えるためにうみだした投法)という珍投法でファンを沸かせている。 |
| 現役時代もオープン戦で一度、披露したことがある。 |
| 後にトリビアの泉でも横浜スタジアムで披露し、レフト前ヒットを打たれたが、「打たれたことよりも、ストライクが入って嬉しい」とコメントした。 |
| 仏教系の高校出身のためか、学生時代からの仏教徒で、マウンドに上がる際に数珠を捲いて登板したこともある。 |
| 1982年のオールスターゲーム戦で斉藤は7回から登板し延長11回まで5イニングを投げた。 |
| これはオールスターゲームにおける連続投球回数の日本記録であるが、現在のオールスターのルールでは延長戦なし1投手3イニングまでの投球のため、現行のルールである限りこの記録が破られる事はない。 |
| 福島県営あづま球場にバスで移動中に地元の人からヤジを飛ばされ、「うるさい!」と叫んだ。 |