| 斎藤は外国人との交友が広く、若い頃に4年間も駐米公使館付武官を勤めていたこともあって、特にアメリカ人との交際が深かった。 |
| 駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーとは親友の間柄である。 |
| 斎藤の英語力は歴代総理の中でも相当のもので、要人との会話も公式会談をのぞいてほとんどを通訳なしでこなし、日記まで英文で書き綴るほどだった |
| 青年期は痩身であり、堂々たる体格へのあこがれから米国駐在当時、下宿先に毎日ビールを配達させていた。 |
| その甲斐あって、齋藤は強靱な体力を得た。 |
| 明治天皇が危篤のとき、当時の閣僚は1週間宮中に泊り込んで快復を祈ったが、他の閣僚が音をあげる中で、齋藤だけはケロリとしていた。 |
| 「若い頃は、1週間一睡もしないで平気だった」と豪語したという。 |
| 強靭な体力は彼の特筆すべき性質であり、朝鮮総督当時においても、日本から到着したその当日午後には執務を開始するほどであった。 |
| 彼の勤勉さは、この体力に支えられたものだったのである。 |
| 記者会見では、「それはなぁ」とか「ウム」と繰り返すだけで記事にならない。 |
| 記者の方で齋藤の意向を推し測って作文するしかなかった。 |
| だからといっておおまかなわけではない。 |
| 散歩の途中、道に落ちているガラスの破片や古い針を必ず拾って溝に捨てた。 |
| 子供たちが怪我をしないようにという配慮からだった。 |
| 首相になっても、自分のふんどしは必ず自分で洗う細かさもあった。 |
| 1914年(大正3年)、千葉県一宮町新地に別荘を所有している。 |
| 九十九里浜の海岸沿いに500坪の土地を坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。 |
| この別荘は1901年(明治34年)10月に竣工のもので、大正3年に海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。 |
| 古洋服に草履をはき、手拭を腰にぶら下げて松の枝おろしや垣根直しなど、ここでの生活は庭いじりが主であった。 |
| 地元の署長がある時、このときの彼の姿を見て、『爺やさん』と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てに慌てたとの逸話が残っている。 |
| なお、別荘を所有していた関係上、近くの玉前神社には彼が奉納した扁額が掲げられている。 |
| 齋藤は大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。 |
| 揮毫をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。 |
| 自分宛書簡や書類をきちんと保存しておく性格で、選別はすべて自分の手で行っていた。 |
| そのため個人の詳細をきちんと把握しており、間違えるということがほとんどなかった。 |
| 齋藤が整理・保管した書翰類は、大半が国立国会図書館に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている国立国会図書館専門資料部編 『斎藤実関係文書目録』は、書類の部と書翰の部が各2巻で、1993-99年に出された。 |
| 二・二六事件の前夜、齋藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。 |
| 当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。 |
| もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかったグルー『滞日十年』(上下、石川欣一訳、毎日新聞社、1948年)に紹介されている。 |
| ともに滞米経験があり親英米派だった高橋是清とは個人的に親しい友人でもあった。 |