| 東京都足立区で生まれ、埼玉県川口市で育った。 |
| 埼玉県の川口市立北中学校、市立川口高校に入学後に頭角を表し、夏の高校野球の埼玉大会では決勝戦に進出するも熊谷高校に敗れ甲子園出場は果たせなかった。 |
| 1982年、ドラフトで早実のエース荒木大輔の外れ1位で読売ジャイアンツに入団。 |
| 打撃、守備センスの良さから、野手転向を勧める声もあったが、当時の藤田元司監督のアドバイス(投球時の腰回転がサイドスロー向きだったという)もあり、サイドスローに転向。 |
| サイドスロー転向後も球速は全く落ちず、1985年には12勝を挙げるも、それ以降は不遇な時期もあった。 |
| 王貞治監督時代は1軍と2軍を往復し、敗戦処理が役割だった時期もある。 |
| その間、1984年8月28日の横浜大洋ホエールズ戦で、救援登板し、遠藤一彦から自らサヨナラ適時打を打った『読売新聞』1984年8月29日17面14版 『巨人軍5000勝の記憶』付属のDVD。 |
| 1989年、藤田が巨人の監督に復帰。 |
| 藤田から再び指導を受けると、横手からの140km/h超の威力あるストレート、鋭いカーブ(スライダーという評論家もいるが本人はカーブと言っている)を武器に、3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録この記録が止まるきっかけとなったのは実は同僚の槙原である。 |
| 12試合連続がかかった試合は甲子園での阪神戦だったが、その前日に天気予報が雨だった事もあり、先輩である槙原の誘いに乗って夜の街に出かけてしまった。 |
| すると次の日試合は行われ、7回5失点と打ち込まれて記録はストップしてしまった。 |
| を達成するなど20勝をマーク。 |
| 1990年も8試合連続完投勝利を挙げるなど、20勝を挙げ、巨人だけでなく『平成の大エース』『球界のエース』『ミスター完投』と呼ばれるまでに成長した。 |
| この年の斎藤を最後に2年連続20勝投手は現れていない。 |
| 1989年、1990年とも20勝目は、シーズン最後の登板試合で達成している『読売新聞』1989年10月14日19面14版、1990年10月8日19面14版 『巨人軍5000勝の記憶』付属のDVD。 |
| 1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。 |
| 1994年から1996年は3年連続して完封勝利を収める偉業を達成。 |
| 桑田真澄、槙原寛己とともに『三本柱』と呼ばれ、その中でも抜きん出た成績を残し沢村賞3回や最多勝5回など数々のタイトルを獲得した。 |
| 1996年8月16日、通算150勝のかかったヤクルトスワローズ戦では、9回二死から同点に追いつかれた後も12回まで179球を投げきった。 |
| 12回裏の打順で斎藤の代打に送られた岸川勝也が凡退し、二死無走者。 |
| この試合での150勝はお預けかと思われた矢先に当時新人の仁志敏久がサヨナラ本塁打を放ち、土壇場で150勝を達成した『読売新聞』1996年8月17日15面14版 『巨人軍5000勝の記憶』付属のDVD。 |
| 1997年の開幕戦の対ヤクルトスワローズ戦で、広島から移籍してきた小早川毅彦に開幕3連発を浴びるなど衰えも囁かれたものの、2000年後半には一軍に復帰し登板機会は少なかったがリーグ優勝・日本一に貢献した。 |
| 翌2001年のシーズンではシーズン途中から中継ぎもこなし5試合連続で中継ぎ登板を行うなど活躍したが同シーズン限りで槙原寛己・村田真一らと共に現役を引退した。 |
| 3度の防御率1位を獲るなど、生涯通算防御率2.77は、投球回数2000以上の投手の中で歴代23位。 |
| ランキング上位は「投高打低」時代の投手が多く、1970年以降の入団投手の中ではトップの成績である。 |
| また、勝ち星が多ければ負け数も多いというエースもいる中、安定感が高く、投球回数2000回以上の投手中歴代3位の.652の勝率を誇っている。 |
| 通算150勝以上で通算100敗を記録しなかったのは藤本英雄と斎藤の2人だけである。 |
| これには苦手とする広島東洋カープ戦の登板を回避して(これは当時、広島東洋カープには左打者が非常に多かったために苦手にしていたと言われている)先発ローテーションを組むという藤田監督の戦略も関係していた(『巨人軍5000勝の記憶』他)。 |
| 日本シリーズ初勝利が1989年の対近鉄バファローズ第5戦、同2勝目が対2000年の対福岡ダイエーホークス第4戦。 |
| これは史上最長のブランク記録である。 |
| また日本シリーズ史上唯一人の「第1戦先発し初回先頭打者にホームラン打たれた投手」でもある(1989年、打者は大石大二郎)。 |
| 引退後、2002年〜2003年の2年間、1軍投手コーチを務める。 |
| 2004年〜2005年には沢村賞選考委員を務めた。 |
| 2004年からはフジテレビ野球解説者・スポーツ報知評論家を務めた。 |
| 2005年オフに原辰徳監督と共に1軍投手コーチとして復帰。 |
| 2008年〜2009年は2軍投手コーチを務め、2010年からは再び1軍投手コーチを務める。 |
| 入団当時の背番号は41、現役時代最後の背番号は11。 |
| 「11」は斎藤が2001年に引退後、2002年に1年間欠番となっていたが、2003年に入団した久保裕也に与えられた。 |