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プロフィール
- 新渡戸稲造とは
- 生涯
- 札幌農学校へ
- 学者の道へ
- 国際連盟事務次長
- 晩年
- 人物
- 家族
- 後世
- 年譜
- 代表的な著書
- 関連項目
- 関連サイト
新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日)-1933年(昭和8年)10月15日)は 農学者で、 内村鑑三と並ぶクリスチャンの教育者、倫理哲学者。国際連盟事務次長も務め、著書Bushido:TheSoulofJapan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。拓殖大学名誉教授。
生涯
| 岩手県盛岡市に盛岡藩士で、藩主南部利剛の用人を勤めた新渡戸十次郎の三男として生まれる。 |
札幌農学校へ
| 札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。 |
| 農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。 |
| 稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。 |
| ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。 |
| その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。 |
| 他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた。 |
| クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。 |
| 二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。 |
| 農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた。 |
| この時にキリスト教に深い感銘を受け、キリスト教にのめり込んで行く。 |
| 学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。 |
| 聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。 |
| その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。 |
学者の道へ
| 東京大学(のち帝国大学、東京帝国大学)進学するがその研究レベルの低さに失望した。 |
| 1884年、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。 |
| この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。 |
| クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。 |
| その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。 |
| ボン大学などで聴講した後ハレ大学より農業経済学の博士号を得て、アメリカで結婚後に1891年に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。 |
| この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。 |
| だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養。 |
| この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。 |
| 日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。 |
| 1901年には、後藤新平らの招聘を受け、台湾総督府の技師に任命された。 |
| 殖産課長となり児玉源太郎総督に甘蔗の栽培を薦め、台湾糖業の基礎を築くことに貢献した松隈俊子『新渡戸稲造』みすず書房、1969年、p.204。 |
| その後、1903年には京都帝国大学法学部教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。 |
| 1906年、東京帝国大学法学部教授、第一高等学校校長を兼任した。 |
| 東京殖民貿易学校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。 |
国際連盟事務次長
| 1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれた。 |
| 新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。 |
| 余談だが、当の米国は、モンロー主義により国際連盟には不参加となった。 |
| 事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力した。 |
| エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。 |
| しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。 |
| 1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。 |
晩年
| 晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去る。 |
| 一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。 |
| 1928年(昭和3年)札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。 |
| 1929年(昭和4年)学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。 |
| 1933年(昭和8年)秋、カナダのバンフで開かれた太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。 |
| 会議終了後、当時国際港のあった西岸ヴィクトリアで倒れ、永眠。 |
家族
| 1891年にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(MaryElkinton日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。 |
| 二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。 |
| 養子に孝夫がいる。 |
| 祖父の新渡戸傳(つとう)は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川(いなおいがわ)の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し都市計画や産業開発も行った。 |
| この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。 |
| このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。 |
| 稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。 |
後世
| 生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「 |
年譜
| 1862年(文久2年)盛岡藩(のち岩手県盛岡市)の、当時奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。 |
| 1871年(明治4年)兄道郎とともに上京。 |
| 叔父太田時敏の養子となる。 |
| 1873年(明治6年)東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。 |
| 1877年(明治10年)札幌農学校に第二期生として入学。 |
| 同時に成立学舎にも通う。 |
| 1882年(明治15年)農商務省御用掛となる。 |
| 11月、札幌農学校予科教授。 |
| 1884年(明治17年)渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。 |
| 1886年(明治19年)クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。 |
| 1887年(明治20年)独ボン大学で農政、農業経済学を研究。 |
| 1889年(明治22年)ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。 |
| 1891年(明治24年)米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。 |
| 帰国し、札幌農学校教授となる。 |
| 1894年(明治27年)札幌に遠友夜学校を設立。 |
| 1897年(明治30年)札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。 |
| 1900年(明治33年)英文『武士道』(''BUSHIDO:TheSoulofJapan'')初版出版。 |
| パリ万国博覧会の審査員を務める。 |
| 1901年(明治34年)台湾総督府民政部殖産局長心得就任。 |
| 1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。 |
| 1906年(明治39年)第一高等学校長に就任。 |
| 東京帝国大学農学部教授兼任。 |
| 1909年(明治42年)実業之日本編集顧問となる。 |
| 1916年(大正2年)東京貿易殖民学校長に就任。 |
| 1917年(大正6年)拓殖大学学監に就任。 |
| 1918年(大正7年)東京女子大学初代学長に就任。 |
| 1920年(大正9年)国際連盟事務次長に就任。 |
| 1921年(大正10年)チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。 |
| 1925年(大正14年)帝国学士院会員に任命される。 |
| 1926年(大正15年)国際連盟事務次長を退任。 |
| 1928年(昭和3年)東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。 |
| 1929年(昭和4年)太平洋調査会理事長に就任。 |
| 拓殖大学名誉教授に就任。 |
| 1931年(昭和6年)第4回太平洋会議に出席(上海)。 |
| 1933年(昭和8年)カナダ・バンフにて開催の第5回太平洋会議に出席。 |
代表的な著書
| 矢内原忠雄訳『武士道』(岩波文庫、1938年)ISBN4003311817。 |
| 奈良本辰也訳『武士道』(三笠書房、1997年)ISBN4837917003。 |
| 『ABC引き日本辞典』井上哲次郎、服部宇之吉などとの共編(三省堂、1917年)。 |
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1862年
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新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、(文久2年8月... |
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1884年
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「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリ... |
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つながりの強いひと
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矢内原忠雄
日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。 |
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奈良本辰也
日本の歴史家。京都帝国大学卒、立命館大学教授、京都国際外国語センター学院長などを歴任。日本中世史、幕末史、特に郷里でもある長州藩に関係した著作多数。 |
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内村鑑三
同期
日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。 |
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後藤新平
後藤新平(ごとうしんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日)-昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。伯爵(明治39年... |
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クラーク博士
▼クラーク博士とカレーライスの係わりについて,市民からの照会やテレビ局の取材依頼が増えています。最近の札幌でのカレーブームの影響もあるのでしょうが... |
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森本厚吉
森本厚吉の略歴 明治10年、京都府舞鶴で生まれ、麻布中の前身である東洋英和学校に入学、英語を学ぶ。英語を学びながら新渡戸稲造先生の名を知り、明治27年、... |
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藤原正彦
日本の数学者。専門は数論、特に不定方程式論。お茶の水女子大学名誉教授。『国家の品格』などを著したエッセイストとしても知られる。妻は、お茶の水女子大... |
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佐藤全弘
宗教学者、大阪市立大学名誉教授。大阪生まれ。大阪市立大学文学部卒。同大学助教授、教授、1993年定年退官、名誉教授、関西外国語大学教授、四国学院大学教... |
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賀川豊彦
大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本... |
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李登輝
中華民国の政治家・農業経済学者。元・中華民国総統(1988年-2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教はプロテスタント・長老... |
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新渡戸伝
新渡戸伝1793年~1871年(寛政5年~明治4年)
五千円札に出ている新渡戸稲造氏は、新渡戸十次郎の長男。新渡戸十次郎は、伝氏の長子です。
新渡戸伝氏は盛... |
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岬龍一郎
講師:岬 龍一郎先生のプロフィール
作家、評論家。
1946年長崎生まれの東京育ち。
早稲田大学卒業。後、情報会社・出版社等の役員を歴任。退職後、著述... |
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南原繁
南原繁(なんばらしげる、1889年(明治22年)9月5日-1974年(昭和49年)5月19日)は日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。 |
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新渡戸傳
祖父
新渡戸傳(にとべつとう、寛政5年11月7日(1793年12月9日)-明治4年9月27日(1871年11月9日))は盛岡藩家老、のちに大参事。父は名前は伝蔵。南部利剛の城使... |
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松岡正剛
日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都府出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締... |
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宮部金吾
同期
日本の植物学者。北海道札幌市名誉市民。札幌農学校第二期卒業生(現在の北海道大学)。 |
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樋口一葉
日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「... |
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山本博文
日本近世史専攻の歴史学者。岡山県生まれ。 |
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農学者
農学者、教育者。長野県下伊那(しもいな)郡飯田(いいだ)の鈴木家に生まれ、1883年(明治16)大工原孝吉の 養子 となる。94年 帝国大学 農芸化学科を卒業... |
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杉森久英
杉森久英(すぎもりひさひで、1912年(明治45年)3月23日-1997年1月20日)は日本の小説家。 |
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新渡戸稲造さんについてのひとこと紹介
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