| 幼名は「善日麿」であったと伝えられている。 |
| 父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている『百家系図稿』巻2,三国真人では、幼名を薬王丸、母を清原兼良の娘とする(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986による)。 |
| 日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。 |
| 1233年(天福元年)清澄寺の道善に入門。 |
| 1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。 |
| 1242年(仁治3年)比叡山へ遊学。 |
| 1245年(寛元3年)比叡山横川定光院に住した。 |
| 1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。 |
| 1248年(宝治2年)薬師寺、高野山、仁和寺へ遊学。 |
| 1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。 |
| 1253年(建長5年)清澄寺に帰山。 |
| 1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(立教開宗)、この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。 |
| この頃、名を日蓮と改め、天台宗の尊海より伝法灌頂を受ける。 |
| 清澄寺を退出。 |
| 鎌倉に出て弘教を開始。 |
| 1257年(正嘉元年)鎌倉の大地震を体験、実相寺で一切経を読誦、思索する。 |
| 文応元年7月16日(1260年8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送るこの書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。 |
| 安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。 |
| その後、ふたたび布教をおこなう。 |
| 1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊豆法難)。 |
| 1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。 |
| 蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。 |
| 日蓮は執権北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。 |
| 7月極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 |
| 9月良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 |
| 平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。 |
| 10月評定の結果佐渡へ流罪。 |
| 流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。 |
| また法華曼荼羅を完成させた。 |
| 日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。 |
| 綾部恒雄,飯田徳昭,他23名『総解説世界の宗教と経典』自由国民社(1991)p150。 |
| 春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。 |
| その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。 |
| 身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。 |
| 、蒙古襲来(文永の役)。 |
| 予言してから5か月後にあたる。 |
| 1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。 |
| それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。 |
| 1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。 |
| 9月8日(10月10日/10月17日)、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。 |
| 10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。 |
| 池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。 |
| 10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。 |
| この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる日蓮正宗など富士門流では、日興一人だけが後継者に定められたとしている。 |
| 10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。 |
| 享年61(満60歳)死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられ、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える習わしとなっている。 |