SPYSEEとは
|
よくあるご質問
|
ユーザ登録
|
ログイン
検索
詳細検索
19916
20114
223230
%E6%97%A5%E8%A6%AA
%E6%97%A5%E8%A6%AA
%E6%97%A5%E8%A6%AA
%E6%97%A5%E8%A6%AA
%E6%97%A5%E8%A6%AA
0
日親
Tweet
トップ画像の変更
他の画像検索結果
※ 画像について
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。 人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう
日親の画像検索結果ページ
で修正できます
閉じる
ネットワーク
タグ
歴史上の人物
タグを編集
キーワード
1408年
1488年
律宗
日英
町衆
すべて見る
プロフィール
日親とは
生涯
日親と不受不施義
日親の活動
著作
関連項目
日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日)-長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の
日蓮
宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。
生涯
妙宣寺において父の実弟にあたる
日英
に学び、中山法華経寺に入門する。
応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。
永享5年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい
折伏
に対して反発を買い、同流から破門された。
同9年(1437年)再び上洛し、本法寺を開く。
日親は諸寺院を
日蓮
宗に改宗させ、6代将軍
足利義教
への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。
永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となる。
拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。
翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が
殺された
ことによって赦免され、本法寺を再建。
寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍
足利義政
からの上洛命令を受けた。
同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建する。
長享2年(1488年)に入寂、享年82。
日親と不受不施義
日蓮
の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。
特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論が
建武
3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。
このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。
日親の活動
日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。
また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の
日蓮
宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。
この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる。
著作
『
折伏
正義抄』-永享10年(1438年)。
『立正治国論』-永享12年(1440年)。
『埴谷抄』-文明2年(1470年)。
関連項目
室町時代の
人物一覧
。
日親 - Wikipedia
より要約
1336年
律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)...
1427年
上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う
年表をもっと見る・くらべる
投票数
0
ふりがな
入力する
性別
入力する
出身地
入力する
生年月日
入力する
血液型
入力する
職業
入力する
所属
入力する
Twitter
入力する
フォロワー
追加・投票
不適切なページとして報告する
閉じる
不適切なページを報告する場合は、
ログイン
または
ユーザ登録
してください
※名誉毀損・誹謗中傷にあたる情報の削除等はこちらからお願いいたします
つながりの強いひと
加藤清正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。その後も各地を転戦し...
足利義教
室町時代中期の室町幕府第6代将軍(在職:1428年-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義円、還俗直...
本阿弥光悦
江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の...
御家人
鎌倉幕府御家人制の展開 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 七海 雅人著...
長谷川等伯
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。
日蓮
鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗(法華宗)の宗祖。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡...
千葉常胤
平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。
日像
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての日蓮宗の僧。俗姓は平賀氏。下総国の出身。房号は肥後房。肥後阿闍梨と称される。四条門流の祖。初め日蓮六老僧の一人...
法然
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀...
もっと見る
帰依
仏教用語で、拠り所にするという意味。「三宝」に「帰依」、つまり仏教徒になるという意味で最も多く使われる。アブラハム系のキリスト教、ユダヤ教、イスラ...
寿老人
オンバザラユセイソワカ(普賢菩薩の延命呪と同じ)。酒を好み頭が長く、白髪で赤い顔をした長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿...
日蓮聖人
日蓮聖人の教えの元、世界の平和と人類の幸福を願い、日々精進しております。 トップページ > 活動 > 布教師会 最新記事...
忍性
鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。父は伴貞行(後に叡尊教団の斎戒衆となり慈生敬法房と名乗った?)。大和国城下郡屏風里(現奈...
北条時頼
鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年-1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗の父。
道元
鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元禅師と...
地蔵尊
打坂地蔵尊 〜勇気ある殉職、鬼塚車掌〜 昭和22年9月1日午前10時ごろ、当時21歳の 鬼塚道男 ( おにづかみちお ) 車掌は、西彼杵郡時津村(現在の時津町)打...
後水尾天皇
後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日)-延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日...
栄西
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。日本臨済宗の開祖、建仁寺の開山。生年には異説がある。天台密教葉上流の流祖でもある。また、喫茶の習慣を...
孝明天皇
江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐1867年1月30日(慶応2年12月25日)。幼称は煕宮(ひろのみや)。諱は統仁(おさ...
日親さんについてのひとこと紹介