| 1968年、ドラフト1位で当時水原茂率いる中日ドラゴンズに入団。 |
| 少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。 |
| 中日のエースナンバーである20に変更後も非常に愛着のある番号だったという。 |
| 入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。 |
| 1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。 |
| この「巨人のV10阻止」の瞬間のリーグ優勝の際の胴上げ投手となっている。 |
| 大学4年生時のドラフトに際しては、読売ジャイアンツとの間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。 |
| しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。 |
| それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという。 |
| この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。 |
| 通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。 |
| 巨人キラーとしてその名を轟かせた。 |
| 対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。 |
| その中の最高勝率は星野である。 |
| 星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。 |
| 家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。 |
| なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。 |
| そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。 |
| 巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。 |
| 1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。 |
| しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。 |
| しかし阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。 |
| この時の星野について、当時阪神の中心打者の1人だった藤田平は雑誌での江夏豊との対談で、「そういう風に考えているときのほうが得てしていいボールが来るもんなんやね。 |
| ぜんぜん打てる気がせんかった」と語っている。 |
| なお、江夏はこの試合前に阪神の幹部に「勝たんでええ」と言われていたという。 |
| 珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。 |
| 宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。 |
| その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾談)。 |
| 星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。 |
| 選手交代された時に『大丈夫です。 |
| まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。 |
| 逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。 |
| 1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。 |
| 1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退を決意。 |
| 1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合になり、先発として登板。 |
| 先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。 |
| 現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。 |
| 引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。 |