| 、山口県立安下庄中学校(現・山口県立周防大島高等学校安下庄校舎)を経て、1946年(昭和21年)、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。 |
| 翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。 |
| しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。 |
| 郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。 |
| 闘病期間中に作詞を学び、1952年(昭和27年)に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」後にコロムビア・ローズと若山彰の歌唱でレコード化される。 |
| が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953年(昭和28年)に作詞家デビューしたスポーツニッポン、2010年11月26日21面。 |
| 石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。 |
| 「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。 |
| 1958年(昭和33年)、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。 |
| このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。 |
| 船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。 |
| 1964年(昭和39年)にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983年(昭和58年)にフリー作家となる。 |
| コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び、数々のヒット作を生み出した。 |
| 1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。 |
| 2001年(平成13年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を務めている(2004年(平成16年)9月30日まで)。 |
| これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。 |
| 1988年(昭和63年)6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008年(平成20年)6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与されている |
| 1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立される。 |
| 2007年(平成19年)7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。 |
| 2010年(平成22年)11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。 |
| 葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。 |
| 葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。 |
| その後、星野哲郎は品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。 |
| 戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。 |
| ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日である。 |
| 大政奉還を見届けて約1ケ月後に京都・近江屋で暗殺された英傑にちなみ、{{要出典範囲|星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファンから述懐されている。 |
| 星野哲郎の死去に当たり、日本放送協会が追悼番組『追悼作詞家星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。 |