| ハワイではバスケットボールをしていたが、その体格を東関親方(元高見山)に見込まれ、相撲界入り、1988年3月場所に初土俵。 |
| 同期入門は「花の六三組」と言われる横綱・若乃花(現タレント・花田勝)、貴乃花、大関・魁皇、小結・和歌乃山、前頭・力櫻(現プロレスラー・力皇猛)、十両・須佐の湖、鶴ノ富士、琴岩国、琴乃峰など。 |
| 序ノ口では貴乃花(当時・貴花田)に勝ったが、琴乃峰にプロ初黒星を喫している。 |
| 三段目時代の1989年3月場所前、まだ指折りの大部屋だった伊勢ヶ濱部屋に出稽古に出かけた曙は当時、1月場所で10勝をあげ自己最高位の前頭筆頭まで躍進した若瀬川に胸を借りた。 |
| 相手が三段目と甘く見ていた若瀬川は2、3回軽く四股を踏んだだけで、仕切って待っている曙の前に立つと両手を広げて大きく胸を出した。 |
| 曙は若瀬川の胸をめがけて頭から思い切りぶちかますと若瀬川は仰向けにひっくり返り、腰を痛めて病院に運ばれる羽目になった。 |
| 初土俵からわずか一年で幕内力士を「病院送り」にした曙はこの場所6勝1敗、翌場所は早くも幕下に昇進した。 |
| ちなみに若瀬川は7日目まで休場、翌日から出場したがわずか1勝しかできず、遂に三役の座を手中にすることはなかった。 |
| 長身を活かした突き押しが特徴で、同期の若乃花・貴乃花の最大のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じ、特に22回の幕内優勝を成し遂げ、平成の大横綱と呼ばれた貴乃花とは一時代を築き上げ「曙貴(あけたか)時代」とも言われた。 |
| 幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と、全くの五分であった。 |
| また、立ち合いの際にはリーチの長さを生かすために、仕切り線から下がって始めることが多かった。 |
| その一方足が長い体型(平幕時代に発行された相撲に関する書籍の力士紹介で「上半身がアンコ型で下半身がソップ型とバランスが悪い体型をしている」と書かれたこともあった)から下半身が脆いという致命的な弱点を持ち、舞の海など小兵の力士に懐に潜り込まれ足を取られると容易にバランスを崩され、何もできずにあっさり負けてしまうことも目立った(舞の海に三所攻めで負けた一番はその好例である。 |
| なお、このときの決まり手はなぜか三所攻めとはならず内掛けとなった。 |
| しかし、1992年から1993年にかけて大関で2場所連続優勝を果たし横綱昇進、横綱不在を解消し、貴乃花の昇進まで一人横綱を維持し、その間にも優勝を重ねた。 |
| また、1991年7月場所初日では、当時体重が200Kg以上の巨漢横綱だった大乃国を立ち合いから一撃で押し倒し、土俵の外へ吹っ飛ばした。 |
| なお、同場所で復活を懸けた横綱大乃国はこの一番で調子を狂わせたのか8日目で4勝4敗の成績不振により、この1991年7月場所限りで現役引退となっている。 |
| 横綱土俵入りは四股の足がほとんど上がらず、この点では貴乃花と比べて見劣りがしたしかし、四股は本来足を高く上げるものではなく、玉錦以前の四股に戻ったとも言え、本質的な問題ではない。 |
| むしろ足を高く上げ土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとするのが本来的な概念。 |
| また土俵中央最後の左の四股の前に横に出す手は右手なのに、1993年9月場所、横綱4場所目を迎えた曙はなぜか土俵入りの際、左手を上げて左の四股を踏んだ(これは初日から4日目まで続いた)。 |
| しかしたくましい上半身が引き立つせり上がりは非常に迫力があった。 |
| NHKの大相撲中継でも度々アップで映し出されていており、魅力ある土俵入りを見せたといえる。 |
| いかつい顔も、せり上がりで正面を睨むこの時ばかりは映えた。 |
| 1998年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、当時東横綱の貴乃花が直前の同年1月場所中体調不良で途中休場となったため、欠席した貴乃花の代役として西横綱の曙が開会式のときに横綱土俵入りを演じた。 |
| 2mを超える長身といかつい容貌のため、また若貴の人気が突出していたためあるいは師匠同士の因縁のため、外国人初の横綱を張ったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かったが、平幕力士として話題性が少なかった時期には、関取に昇進して以降ハワイの両親の元に送金を欠かさなかった1991年5月場所に小錦に敗れ7勝8敗と1点の負け越しを喫し連続勝ち越しが途切れるまで、勝ち越しによって増額された分の給金を送金していた。 |
| このことは広く知られており、負けて負け越しとなる一番を元とした取組が漫画で描かれた折にも、曙をモデルとした力士がその旨を心の声として語っている)ことから「孝行息子」また、当時の東関部屋の部屋頭だったことや師匠譲りのオレンジ色の廻しを締めていたこと(後には紫や黒、緑に変えている)から「ジェシーの一番弟子」として微笑ましく見守るファンは多く、相撲部屋を扱ったテレビ番組で師匠の東関親方とともに当時の高砂親方(元小結・富士錦)のもとに新年の挨拶に訪れ、お年玉をもらう姿が放映された。 |
| しかし折からの「若貴ブーム」で相撲を大々的に取り上げ始めた民放スポーツ番組では、プロレス並みに若貴に対抗するヒール役としてレッテルを貼った。 |
| 幕内最高優勝の通算回数は11回で、10回以上優勝したことのある横綱の中で唯一全勝優勝がない。 |
| 1993年9月場所千秋楽では貴乃花に全勝優勝を阻まれた。 |
| 優勝決定戦には7回出場(4回優勝)。 |
| 2人の決定戦(1993年11月場所、1997年5月場所、1999年7月場所)、3人の決定戦(1993年7月場所、1994年3月場所)、4人の決定戦(1997年3月場所)、5人の決定戦(1996年11月場所)全てに出場という珍記録の持ち主でもある(更に、これらの決定戦の出場力士は、結果的に、全員が幕内最高優勝の経験者となった=注釈参照。 |
| 出島は曙との決定戦勝利が唯一の優勝、貴ノ浪、魁皇、貴闘力も、これ以降に優勝経験あり=)。 |
| また幕内で10回以上対戦して負け越している力士が一人もおらず、どのような力士に対しても実力を発揮できたことが窺える。 |
| なお貴乃花とは先述の通り21勝21敗、出島には6勝6敗の五分であった(但し出島とは優勝決定戦を含めると6勝7敗と負け越しており、一時は決定戦を含め6連敗したこともある)。 |
| 手足の長さから重心が高く、半月板損傷などで足の故障が多かった。 |
| 1994年5月に両膝を故障した後は、若貴らの活躍もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001年1月場所の引退までのおよそ6年間で幕内優勝は4回に留まった。 |
| それでも2000年7月場所と11月場所には復活の優勝を果たし、その2000年には1993年以来7年ぶり2度目の年間最多勝も獲得した。 |
| その翌2001年の1月場所は全休、その1月場所終了直後持病となった両膝のケガの悪化を理由に、突如現役引退を表明した。 |
| 引退相撲、断髪式は2001年9月場所後に行われ、ハワイの先輩の小錦、後輩の武蔵丸、ライバルの貴乃花らが鋏を入れた。 |
| 引退後、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。 |
| 礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆・力士からの評価はとても高かった。 |