| 黄初5年(224年)、寿春県王となり、黄初7年(226年)には白馬王となった。 |
| 文学を愛好し、詩人として名高い異母兄の曹植と親しかった。 |
| 黄初4年(223年)、曹植と一緒に領国に帰ろうとした際、監国使者に妨害され、互いに別の道を通って帰国せざるを得なくなった。 |
| この処分に憤激した曹植から詩(「白馬王彪に贈る」)を送られている『魏志』巻19任城陳蕭王伝注『魏氏春秋』および「白馬王彪に贈る」序より。 |
| なお、これらの記述が『魏志』の黄初7年、白馬王転封の記述と矛盾することから、『魏志』を誤りとする見解(黄節『曹子建詩注』、趙幼文『曹植集校注』)がある。 |
| 一方『三国志集解』の盧弼は、詩題および序文を後人の付加とみなす。 |
| 太和5年(231年)冬、首都に入朝した。 |
| 太和6年(232年)、楚王に転封された。 |
| 来朝時に禁令を犯したため、青龍元年(233年)、役人の上奏により3県1500戸の領地を削られた。 |
| 青龍2年(234年)に大赦を得て元の領地を回復した。 |
| 景初3年(239年)には500戸を加増され、領邑は合わせて3000戸となった。 |
| 嘉平元年(249年)、太尉の王凌(王允の甥)は、外甥の令狐愚にそそのかされ、司馬懿の傀儡となった皇帝(曹芳)に代えて曹彪を擁立するクーデターを企てた。 |
| 曹彪もこの話に乗った。 |
| しかし、嘉平3年(251年)、この計画を察知した司馬懿によってクーデターは失敗し、王凌らは逮捕されて自殺した。 |
| 曹彪は勅命により自害を命じられ、服毒自殺した。 |
| 妻子と共に平民に落とされ、配下の官僚は監国謁者(王の監視人)を含め、事情を知りながら報告しなかったとの理由で全て処刑された。 |
| 領国は没収された。 |
| 人相見として著名であった朱建平は、曹彪の相を見て、57歳のときに兵難に遭うことを予言していた。 |
| 息子の曹嘉は正元元年(254年)の詔勅により罪を許され、皇族に復帰し常山真定の王に封じられた。 |
| 景元元年(260年)に加増を受けて合わせて2500戸を領した。 |
| 魏の滅亡後は、晋に仕え高邑公となった。 |
| 石崇(石苞の子)と親しく、東莞太守を務めた時に、互いに詩を贈り合っている。 |