| 群臣と論議することを好み、彼がまだ16歳の時に帝王の優劣について荀顗(荀彧の六男)らと、過去の皇帝の優劣について論じたという記録が残っている。 |
| 奇しくも曹髦が評価したのは、滅亡寸前の夏王朝を建て直した少康であり、彼の臣下が推したのは漢の高祖であった。 |
| 論戦には勝った旨が記されているが、魏の衰運を押しとどめることはついに叶わなかった。 |
| 曹髦はよく王沈(曹髦に「文籍先生」と呼ばれた)・裴秀(曹髦に「儒林丈人」と呼ばれた)・司馬望・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。 |
| 斉王以来、魏は司馬師・司馬昭が専権するところとなっており、皇帝は傀儡であった。 |
| 曹髦は「司馬昭の(簒奪を目論む)心は、道行く人でも皆知っている」と言い、自ら剣を手に、わずかな近衛兵を率いて挙兵した。 |
| しかし、挙兵を打ち明けた王業・王沈・王経の内、王業・王沈が密告したため、既に司馬昭の懐刀である賈充が、軍勢と共に待ち受けていた。 |
| しかし、誰も天子を畏れて斬りかかろうとしなかった。 |
| 賈充は部下たちに「司馬公がお前たちを養ってこられたのは、まさに今日のためである」と叱咤し、罪に問わないと約束した上で曹髦を殺害させた。 |
| 『晋書』文帝紀では「太子舎人成済、戈を抽きて蹕(さきばらい)を犯し、之を刺すに、刃は背より出で、天子は車中に崩ず」とある。 |
| 結局、司馬昭は実行犯の成済に全責任を押しつけ、一族もろとも処刑してしまった。 |
| 成済は処刑直前、門の屋根に登り司馬昭や賈充を罵ったという話も伝わる。 |
| また、ただ一人密告しなかった王経も、老母共々処刑された。 |
| 一方、賈充は全く罪に問われなかった。 |
| 『魏志春秋』によると、高貴郷公暗殺を聞いた太傅の司馬孚と尚書僕射の陳泰は、若い皇帝の遺体を膝に乗せて哭礼を行ったという。 |
| そこへ、当の司馬昭が参内し、陳泰は彼に向かって泣いた。 |
| 司馬昭は密室に陳泰を連れ込み、これからどうしたらよいか方策を聞いた。 |
| 陳泰は「殺害を命じた賈充を腰斬に処すくらいしか、天下に謝罪する方法はありません」と言い、譲歩を訴える司馬昭に対して「私が申し上げるのはこれだけです。 |
| 他の策など存じません」と譲らなかったという。 |
| ただし、裴松之はこの記述の信憑性に疑義を呈している。 |
| 公式発表では曹髦が皇太后の殺害を企て、その宮殿に乗り込まんとして、逆に衛兵に殺害されたとしたために、彼の葬儀は当初は庶民として扱う旨の命令が出されていた。 |
| 司馬孚はこれを聞くと自ら皇太后に談判し、その結果王の格式で葬儀を行うことになった。 |
| このあたり、陳寿の筆致は晋の史家だったためか、事実をそのままは伝えていない。 |
| 5月7日に高貴郷公が亡くなったという一文の後、真実そのような事があったとも思われない皇太后殺害未遂という公式発表、司馬孚らの葬儀に対する言上を続けているのみである。 |
| 事実は、裴松之による註により補われた。 |