7010
7142
91580
%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 最上義光の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 最上義光とは
- 家督相続まで
- 出羽統一戦
- 豊臣政権下
- 慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)
- 晩年
- 義光後の最上家
- 関連サイト
最上義光(もがみよしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国の戦国大名・最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。 伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大名に成長させて全盛期を築き上げた。
家督相続まで
| 天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将との間に長男として生まれる。 |
| 永禄3年(1560年)に元服し(永禄元年とも)、将軍・足利義輝より偏諱を賜って、源五郎義光と名乗った。 |
| この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。 |
| しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。 |
| 永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁したが、その折に道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が近年再発見された。 |
| 永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。 |
| 元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。 |
| 5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解したが、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。 |
| しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。 |
| 天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。 |
| 9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。 |
| 以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。 |
| 従来、義守が義光を廃嫡して次男の中野義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている(詳細は天正最上の乱を参照)。 |
出羽統一戦
| 家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏分家の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久に至っては、最上氏の家職である羽州探題を自称し、中央の実力者織田信長に出羽守への推任を願い出るなど山形新聞・平成6年3月4日朝刊の記事によれば、天正5年(1577年)に義光もまた信長に謁見し「最上出羽守」に任じられたという文書が発見されたという。 |
| 、この時点ではまだ最上一郡太閤検地以前は、最上郡と村山郡は現在と名称が逆であった(詳細は最上郡・村山郡の項を参照)。 |
| の支配すらもおぼつかない状態であった。 |
| そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。 |
| 天正5年(1577年)、義光は天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦して頼貞の女を義光の側室に迎えた(天童御前)。 |
| 天正6年(1578年)、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。 |
| 義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込み、連合軍に手痛い打撃を与えた。 |
| 浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。 |
| 天正8年(1580年)、義光は満兼の重臣・里見民部に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、上山城は義光の手に落ちた。 |
| 天正9年(1581年)から村山郡にも兵を進め、まずは天童氏の姻戚である小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。 |
| 夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略する。 |
| 天正10年(1582年)、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。 |
| 天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。 |
| 不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃した。 |
| 天正12年(1584年)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。 |
| 続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。 |
| また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。 |
| そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。 |
| 追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。 |
| こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。 |
| 天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。 |
| 緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。 |
| 天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・義興が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・義勝(上杉家臣・本庄繁長の子)は越後に逃れた。 |
| 天正16年(1588年)2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。 |
| 8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が家臣の本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じ、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は既に上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還された。 |
| その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。 |
豊臣政権下
| 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原の役に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石昭和『山形県史』近世編上による。 |
| 『山形市史』は13万石の知行宛行状を与えられたと記している。 |
| の安堵を受けた。 |
| この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に徳川家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった(小田原参陣前に義光が安東愛季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある)。 |
| また奥州仕置の際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡(上浦郡の一部)を削り取った。 |
| なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺を目論んでいたとされることがあるが、この説が正しいかは諸説ある(義姫参照)。 |
| 天正19年(1591年)、徳川家康が九戸政実討伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。 |
| この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。 |
| 義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。 |
| 駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。 |
| また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。 |
| 天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。 |
| また、この年より山形城の改築に取り組み始めた。 |
| 文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。 |
| この計略にはまった義道は道為を成敗した。 |
| その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では西軍に味方し、戦後改易された。 |
| 文禄4年(1595年)、豊臣秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際、義光の娘の駒姫も連座して京三条河原で処刑された。 |
| 一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったという。 |
| 義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。 |
| 義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事をとることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。 |
| 義光は秀吉の不興を買い、さらに伊達政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。 |
| この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。 |
| この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。 |
| これ以降、慶長の大地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、徳川方への傾斜をますます強めていく。 |
| 慶長3年(1598年)、会津若松城主・蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封されると(蒲生騒動)、会津には上杉景勝が奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために送り込まれた。 |
| 景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。 |
慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)
| 慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝が軍備を増強していることを詰問する。 |
| 上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。 |
| これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。 |
| 義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。 |
| しかし、家康が会津征伐に赴く最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵する。 |
| 家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じ上方に引き返した。 |
| これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。 |
| 義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。 |
| しかし、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。 |
| これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して最上義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。 |
| わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。 |
| 続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。 |
| 他にも上山城の里見民部、湯沢城の楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた(慶長出羽合戦)。 |
| 一説によれば、政宗は重臣・片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。 |
| 9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。 |
| 西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。 |
| 上杉軍が退却し、和平交渉へ向けて動いている間に最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、尾浦城主下秀久も降伏した。 |
| 義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などを加えられ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。 |
晩年
| 義光は居城である山形城を改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。 |
| まず、商人町を整備するため、山形城下においては地子銭・年貢を免除し、間口四間半から五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。 |
| さらに上杉から奪い返した日本海の要津・酒田港を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる二本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。 |
| 農政面では、治水工事を積極的に推進し、北楯利長・新関久正らに命じ北楯大堰・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を大きく向上させた。 |
| 慶長16年(1611年)3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。 |
| 慶長18年(1613年)、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。 |
義光後の最上家
| テレビ時代劇『水戸黄門』に登場する国家老・山野辺兵庫は、山野辺義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。 |
| 昭和52年(1977年)、霞城公園内に「最上義光公勇戦の像」が作られ、平成元年(1989年)12月1日、最上家史料を展示し義光を顕彰する施設として、山形市によって最上義光歴史館が建設された。 |
|
1546年
|
第10代当主・最上義守と母・小野少将との間に... |
|
1560年
|
元服し(永禄元年とも)、将軍・足利義輝より... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
上杉景勝
上杉景勝/長尾顕景(うえすぎかげかつ/ながおあきかげ)は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙... |
|
|
前田利家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生ま... |
|
|
最上義守
最上義守(もがみよしもり)は出羽国の戦国大名。最上氏第10代当主。中野義清(中野義建の子で最上義淳の孫)の子。最上義光・義姫らの父。伊達政宗の母方の... |
|
|
駒姫
最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室。別名、伊万(いま)。伊達政宗の従妹に当たる。彼女の名は御駒山からとられている。 |
|
|
伊達輝宗
戦国時代の武将・戦国大名。伊達氏第16代当主。 |
|
|
北条氏政
戦国時代の相模国の武将・大名。後北条氏の第4代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信・武田勝頼は義兄弟にあたる。父・北条氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に... |
|
|
義姫
妹
義姫(よしひめ、天文17年(1548年、1547年とも)-元和9年7月17日(1623年8月13日))は戦国時代の人物で出羽国の戦国大名、最上義守の娘、最上義光の二歳下... |
|
|
毛利元就
室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。... |
|
|
斎藤道三
戦国時代の武将。美濃の戦国大名。斎藤氏初代当主。名としては、法蓮房・松波庄五郎(庄九郎)・西村正利(勘九郎)・長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎... |
|
|
白鳥哲
日本の男性俳優、声優、映画監督。文学座出身、大沢事務所所属。血液型はO型。東京都出身。明治学院中学校及び明治学院東村山高等学校を経て、明治学院大学国... |
|
|
志村光安
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。最上氏の家臣。通称は伊豆守。名は高治とも。父・志村光清は最上家譜代の家臣。最上義光に仕える。「性剛にして、... |
|
|
延沢満延
戦国時代から安土桃山時代の武将。最上氏家臣。出羽国野辺沢城主。 |
|
|
氏家守棟
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。最上氏の家臣。氏家定直の子で、主君・最上義守からの1字拝領により、守棟を名乗った。尾張守を称す。謀略の才があ... |
|
|
花押
署名の代わりに使用される記号・符号をいう。元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図... |
|
|
足利義輝
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年-1565年)。父は第12代将軍の足利義晴。なお、第10代将軍足利義稙の養子となった阿波公方... |
|
|
保科正之
江戸時代の大名。会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。 |
|
|
氏家定直
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。最上氏の家臣。子に氏家守棟。伊予守を称す。最上義守、最上義光の二代に仕えた。1570年、義守と義光が家督をめぐ... |
|
|
鳥居忠政
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。下総国矢作藩主、陸奥国磐城平藩主、出羽国山形藩主。壬生藩鳥居家初代。鳥居元忠の次男。母... |
|
|
本庄繁長
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。 |
|
|
鮭延秀綱
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。出羽国の豪族で、小野寺氏・最上氏・土井氏の家臣。佐々木貞綱の子。典膳、越前守を称する。鮭延氏は宇多天皇の子... |
|
|
最上義光さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|