| 『月光仮面』前年の1957年(昭和32年)の11月からKRテレビ(KRT)は、宣弘社を番組代理店に、10分間の帯番組形式の「国産初のテレビ番組」として、コメディー時代劇『ぽんぽこ物語』(東京テレビ映画制作、川内康範原作・脚本)を放送していた。 |
| しかしこの番組は人気を得られず、翌年2月での打ち切りが決まってしまい、武田薬品がスポンサーを降板しそうになった。 |
| このため武田薬品と縁の深い広告代理店宣弘社としては番組枠を押さえ続けるため、その後釜としてのテレビ番組制作を急遽企画しなければならなくなった。 |
| そこで宣弘社の小林利雄社長は、もとはKRT側から提案され、『ぽんぽこ物語』の企画時に川内が示し、武田薬品側も乗り気だった「和製スーパーマン」の番組アイディアを再検討することとした。 |
| しかし問題は制作予算である。 |
| この当時のテレビ業界では「30分枠のテレビ番組で80万から100万円の制作費が必要」といわれており、この放送枠での10分間の帯番組でのレートとしては、10万円の制作予算しか確保できず、これが先の企画を見送った最大の理由だった。 |
| 困り果てた小林社長は旧知である、東映のマキノ光雄専務に相談したが、「とても無理」として相手にしてもらえなかった。 |
| そこで小林はKRTに事情を話し、KRTから2万円、武田薬品から3万円の援助を受け、制作費を15万円としたものの、この額では到底テレビドラマの制作予算に足るものではなかった。 |
| そこで小林は、自社制作によってこの予算不足を補い、広告代理店としての面目を保つべく、この『月光仮面』の製作のためにテレビ番組製作会社「宣弘社プロダクション」を設立。 |
| 「安く作れるものをお願いします」として、原作を再び川内康範に依頼した。 |
| 小林社長は「スーパーマンみたいなヒーローにしよう!」といったという『昭和特撮大全』。 |
| 川内もまた備蓄の少ない当時の日本が貴重なドルを費やしてアメリカのテレビドラマを輸入することは国益に反すると憂慮しており、これに応えて同年の暮れには映画製作者の西村俊一を小林に引き合わせ、新しい番組企画に取り組むこととした。 |
| 翌年の年頭から企画に参加した西村は、「『鞍馬天狗』のような番組はどうか」と川内に提案、予算不足から時代劇は無理と判断し、これを現代劇とする方向が決まった。 |
| そこで、川内はこの西村の案を基に、人々の危機に颯爽と現れる『おどる仮面』との番組原案を執筆した。 |
| この題名を物足りなく感じた西村は、「人々の苦難を救済する=菩薩」をイメージしたネーミングとして、「日光菩薩の名を借りた『日光仮面』」を考案。 |
| さらに進めて「月光菩薩の名を借りた『月光仮面』」の名称へと発展し、これが決定名となった。 |
| 放送日は2月24日からと決定していたものの、年頭の段階では何も決定しておらず、西村は慌ただしくスタッフやキャストの人選を行わなくてはならなかった。 |
| そこで西村は以前在籍した「綜芸プロダクション」で伊藤大輔に師事し、助監督や編集を務めてきた船床定男を26歳の若さで監督に抜擢。 |
| 続いて東映東京撮影所の大部屋俳優だった大瀬康一を、オーディションによって抜擢した。 |
| 大瀬の抜擢の最大の理由は、小林社長によると「声の張りの良さ」だったという『巨大ヒーロー大全集』(講談社)小林社長の談話。 |
| 撮影スタッフも予算不足を考慮し、西村の映画会社時代の人脈から、「テレビ映画」制作の意欲に燃える無名の若者たちが集められた。 |
| その他のスタッフも社内で持ち回りとなり、フィルム編集は西村プロデューサーが行なった。 |
| 月光仮面や悪人の仮面・覆面姿は美術スタッフの小林晋によるもので、いつでも代役を起用できるようにとの苦肉の策でもあった。 |
| 実際に、どくろ仮面を宣弘社の社員が演じたこともある。 |
| こうしてスタッフ陣が整い、撮影に入ったのは放送3週間前を切った、1月31日のことだった。 |
| プロデューサーも監督も主演も、すべて初の経験者という陣容であり、また「宣弘社プロ」自体が初の番組制作だった。 |
| 極端な予算と人員不足、手作りの番組制作は、今では考えられないような様々な逸話を残している。 |
| 月光仮面の吹き替えを演じた野木小四郎は、たまたまロケを見物していて「下手だなあ」とつぶやいたところを船床監督に聞かれたのがきっかけで、演技に関しては全くの素人ながら、翌日から月光仮面の衣装をつけスタントをおこなうようになった。 |
| 野木はのちにプロデューサーに転身し大成している。 |
| また、撮影スタジオも低予算で確保できないため、小林社長の自宅をスタジオ代わりにし、応接間が「祝探偵事務所」、車庫がどくろ仮面のアジトなどに使われ、撮影中は小林夫人らは邪魔にならないよう旅館に泊まっていた。 |
| それ以外は白金の小林邸近辺で、オールロケで撮影された。 |
| 予算の都合で機材もろくに揃わなかったため、当初はフィルモ(Filmo)というゼンマイ式の小型16mmカメラが使われた |
| フィルモはフィルム一巻で28秒しか撮影できないものだったが、これがかえってテンポの速いカット割りを生み、ドラマ展開にスピーディな印象を与える効果を上げた。 |
| 30分番組になってからも制作費は約60万円と低予算は変わらず、移動撮影用のレールが用意できなかった。 |
| カメラはズーム可能な16mmが導入されたため、移動撮影に代えて、ズーム撮影を多用している。 |
| 野外場面でのバックグラウンドには頻繁に鳥の鳴き声が使われており、それもほぼ全てが同じものである。 |
| 主に三光鳥の鳴き声で、その間から時鳥や鶯がさえずり聞こえるというものである。 |
| この効果音はこれらの鳥類の生息環境でない場所でも平気で使われている。 |
| また夜のシーンになるたびに、夜間を強調するため毎回同じ犬の遠吠えが使われている。 |
| 川内作詞、小川寛興作曲の主題歌『月光仮面は誰でしょう』(歌は近藤よし子、キング子鳩会)と共に子どもたちの圧倒的な支持を受け、平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%(東京地区)を記録し、放送時間に銭湯から子どもの姿が消えたという。 |
| 『月光仮面は誰でしょう』のレコードは当時の子ども向け楽曲としては異例の10万枚以上長田暁二『昭和の童謡アラカルト―戦後編』ぎょうせい、1985年、174頁。 |
| ISBN4-324-00124-3。 |
| を売り上げる大ヒットとなった。 |
| タカトクのお面などの関連商品もヒットした。 |
| それらは全て無許諾商品で、宣弘社の社長の小林利雄は「ああいうのは番組の宣伝につながるわけですから、『どうぞ、どんどんやって下さい!』と応えて、お金なんかもらわなかったですよ」と述べている。 |
| これが当時の常識だった『シルバー仮面・アイアンキング・レッドバロン大全』。 |
| しかし、識者と言われる層からは評判が悪く俗悪視され、月光仮面の真似をして子どもが高い所から飛び降りて怪我または死亡する事故が続発し、新聞や週刊誌から「有害番組」だと批判を受け、1959年3月には『週刊新潮』を川内が提訴する騒ぎも起きた。 |
| この結果、1959年7月5日をもって打ち切りになった。 |
| 最終回の視聴率は42.2%(東京地区)だった。 |
| 武田薬品工業の1社提供による『タケダアワー』第1回作品であり、作品中に「武田薬品の栄養たっぷりのプラッシーですね」などといった台詞が登場する。 |
| この『月光仮面』は漫画化された後に実写映画化される。 |
| その後、1972年にアニメテレビドラマ化、1981年に実写映画化、1999年にはキャラクターを転用したテレビギャグアニメ化もされた。 |