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つながりの強いひと
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木戸孝允
親
幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士で、明治初期... |
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近衛文麿
日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛文麿とも表記される。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34... |
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佐藤賢了
日本の陸軍軍人、陸軍中将。石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)出身。身長5尺6寸(169cm)。 |
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武藤章
昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑判決を受けた。 |
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木戸孝正
父
木戸孝正 きど たかまさ 1857.7.26(安政4)〜 1917.8.10(大正6) 明治・大正期の東宮侍従長、宮中顧問官、侯爵 埋葬場所: 18区 1種 3側 木戸孝允(... |
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華族
1869年から1947年まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家... |
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西園寺公望
日本の公家、政治家、元老。位階・勲等・爵位は贈従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。 |
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東條英機
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
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原敬
日本の外交官、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。幼名は健次郎。号は一山、逸山。外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16... |
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佐藤栄作
日本の鉄道官僚、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。報道などでは新字体で佐藤栄作(さとうえいさく)と表記される場合も多い。内閣官房長官(第4代)、衆... |
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牧野伸顕
日本の政治家。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。名はシンケンと通称されることもある(有職読み)。以前の諱は是利。 |
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児玉源太郎
日本の武士、陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功一級子爵(なお、兒玉源太郞の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。日露戦争において満州軍... |
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平沼騏一郎
日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大... |
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粟屋憲太郎
日本の歴史学者。専門は、日本現代史、とくに東京裁判の研究で知られる。千葉県出身。東京大学文学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科修了。神戸大学講師... |
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木戸孝
父 息子
木戸孝 ダブルクリック 更新日: 2001-08-28 ■ 木戸 孝【きど・たかし】 【会社】 ダブルクリック 【経歴】
76年(昭51)名大工卒、同年日本マクドナル... |
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重光葵
第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。第二次世界大戦中に外務大臣を務め、終戦時に政府全権として降伏文書に調印した。戦後は東京裁判で有期禁... |
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松岡洋右
松岡洋右(まつおかようすけ、3月4日-6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦... |
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鈴木貞一
日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。 |
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プロフィール
- 木戸幸一とは
- 生い立ち
- 戦前
- 東京裁判
- 晩年
- 発言
- 家族・親族
- 系譜
- 参考文献
- 関連サイト
木戸幸一(きどこういち、1889年7月18日-1977年4月6日)は、第二次世界大戦期の日本の政治家である。侯爵。最後の内大臣。幸一の父・ 木戸孝正は明治の元勲・ 木戸孝允の妹・治子と長州藩士・ 来原良蔵の長男。夫人は陸軍大将 児玉源太郎の娘、 ツル。
生い立ち
| 1889年7月18日、東京赤坂において侯爵・木戸孝正の長男として生まれる。 |
| 学習院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し、河上肇に私淑。 |
| 同校卒業後は農商務省へ入省。 |
| 農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。 |
戦前
| 1915年に農商務省に入り、工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。 |
| 1930年、友人であった近衛文麿の抜擢により、臨時産業合理局第一部長兼第二部長を最後に商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。 |
| 1937年の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、1939年の平沼内閣で内務大臣、1940年には近衛と有馬頼寧とともに「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。 |
| 1940年から1945年に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。 |
| 西園寺が首班指名を辞退したのちは、幸一が重臣会議を主催し、後継総理の推薦には幸一の意向・判断が最重要となる。 |
| 第二次世界大戦中は東條内閣を支えたが、一方では早い段階での和平を考えていた。 |
| 戦争末期には、外務大臣・重光葵と2人だけで天皇の「鶴の一声」による終戦工作を行い、鈴木貫太郎内閣の面々に和平の方針を説いて回るなど、いわゆる「聖断」工作を進めた。 |
| これらの政策を推し進めていたことから、本土決戦派の間では幸一を暗殺する計画が持ち上がり、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として、横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、平沼や鈴木と同様に、自宅を焼き討ちされるという憂き目に遭った(宮城事件)。 |
東京裁判
| 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇の戦争責任などに関して、自らの日記(『木戸日記』)などを証拠として提示した。 |
| 日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。 |
| しかし、結果的には連合国との開戦に対して明確に反対しなかったことから、イギリス代表検事であるアーサー・S・コミンズ・カーからは、「“天皇の秘書”であるなら、親英米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳であろう」として、「不忠の人間」であると強く批判された。 |
| また、『木戸日記』は軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、武藤章や佐藤賢了は、巣鴨拘置所と法廷を往復するバスの中で、幸一のことを指差しながら同乗の笹川良一に向かって「笹川君!こんな嘘吐き野郎はいないよ。 |
| 我々軍人が悪く言われる事は、別に腹は立たんが、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』とは、なんという事をいう奴だ。 |
| この大馬鹿野郎が」と吐き捨て、それを聞いていた橋本欣五郎も「本来ならこんな奴は締め上げてくれるんだが、今はそれもできんでね」と罵り、幸一もこの時ばかりは、顔を真っ赤にして俯きながら手持ちの新聞紙で顔を覆い隠したという。 |
| その木戸も終身禁固刑の判決を受け服役する。 |
| なお、幸一に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。 |
晩年
| 1955年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。 |
| 後に青山のマンションに転居。 |
| 1969年、傘寿の際には、昭和天皇から賜杖を下賜されている。 |
| 1974年製作の海外ドキュメンタリー『秘録第二次世界大戦』のインタビューに出演している。 |
| 1977年4月6日、宮内庁病院で胆汁性肝硬変のため87歳で死去。 |
| 遺骨は東京都府中市多磨町の多磨霊園に埋葬された。 |
発言
| 戦後(1945年11月)のインタビューのなかで、次のように証言している。 |
| 「陛下や私があの原子爆弾に依つて得た感じは、待ちに待つた終戦断行の好機を此処に与へられたと言ふのであつた。 |
| それらの心理的衝撃を利用して此の際断行すれば、終戦はどうやら出来るのではないかと考へたのだ。 |
| ……私ども和平派はあれに拠つて終戦運動を援助して貰つた格好である」。 |
| こうして、原爆は和平派にとって、戦争終結という大目的のために政治的に利用すべき「口実」として「非常に好都合なもの」(鈴木貫太郎首相)であった |
| つまり日本の和平派が軍部の強硬派から襲撃を受けず、終戦の機会を得た事を意味している。 |
| 昭和20年3月3日、宗像久敬に対して、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい、という話をしている。 |
| さらに「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。 |
| 世界中が皆共産主義ではないか。 |
| 欧州も然り、支那も然り。 |
| 残るは米国位のものではないか」とし、「今の日本の状態からすればもうかまわない。 |
| ロシアと手を握るがよい。 |
| 英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。 |
| 結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」と述べている。 |
| (「宗像久敬日記」)。 |
系譜
| 藤田 嗣章━━━藤田 嗣雄。 |
| ┃。 |
| ┏━━━━モト。 |
| ┏━木戸 孝允 児玉源太郎━┫。 |
| ┗━━━━治子 ┃ ┏━木戸孝澄。 |
| ┃ ┣━━┫。 |
| ┣━━━━木戸 孝正 ┃ ┗━木戸孝彦。 |
| ┃ ┃ ┏━木戸 幸一。 |
| 来原 良蔵 ┣━━┫。 |
| ┃ ┗━和田 小六。 |
| ┏━━━━寿栄。 |
| ┃。 |
| 山尾 庸三━╋━山尾 三郎。 |
| ┃。 |
| ┗━━━━千代。 |
| ┃。 |
| ┣━━━━━広沢 真吾。 |
| ┃ ┃。 |
| 広沢 真臣━━━広沢金次郎 ┣━━広沢 真信。 |
| ┃ ┃。 |
| 松浦 詮━━━━大隈 信常━━━━━━━豊子 ┃。 |
| ┃。 |
| 毛利 元徳━━━毛利 元昭━━━━毛利 元道━━━━妙子 。 |
| 系図を際限なく広げないでください。 |
参考文献
| 早川隆『日本の上流社会と閨閥』角川書店、1983年、175-179頁。 |
| 吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波書店〈岩波新書〉、1992年。 |
| 城山三郎『落日燃ゆ』新潮社、1986年11月。 |
| 平塚柾緒、太平洋戦争研究会『図説東京裁判』河出書房新社、2002年。 |
| 鳥居民『山本五十六の乾坤一擲』文芸春秋、2010年。 |
| 松浦正孝「宗像久敬ともう一つの終戦工作」。 |
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1889年
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東京赤坂において侯爵・木戸孝正の長男として... |
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1915年
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農商務省に入り、工務局工務課長、同会計課長... |
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投票数
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