| 本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家父は小津定利(おづさだとし)の次男として生まれた。 |
| 少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。 |
| そして、執筆もするようになった。 |
| 寛延元年(1744年)、16歳の時伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。 |
| しかし3年後に離縁して松坂に帰った。 |
| 延享2年(1745年)商売の勉強の為に江戸に赴いた。 |
| 叔父の店で働くが、本を読めぬ生活を嫌い帰郷。 |
| -->延享3年、江戸から郷里に帰る。 |
| 当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了。 |
| この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を延享3年(1746年)より起筆(宝暦元年(1751年)頃まで書き継がれた)した。 |
| 兄が死んだ後、小津家を継ぐ。 |
| 宝暦2年、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。 |
| 京では医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。 |
| 景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも興味を持っており、また契沖の支援者でもあった。 |
| 同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻した。 |
| この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。 |
| その京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。 |
| 宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。 |
| 27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書『冠辞考』(かんじこう)は『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書。 |
| に出会って国学の研究に入ることになる。 |
| その後宣長は真淵に手紙で教えを乞うようになった。 |
| 宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見した。 |
| そして、かねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。 |
| その時に入門を希望し、その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。 |
| 真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。 |
| 以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。 |
| この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』杉戸清彬「玉勝間」に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。 |
| この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。 |
| この読本によって宣長の名が国民的な文化人として記憶されるようになった。 |
| -->一時は紀伊藩に仕えた寛政4年(1792)に五人扶持が生涯市井の学者として過ごした。 |
| 門人も数多く、特に、天明年間(1781~1789)の末頃から増加する。 |
| 天明8年(1788)末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。 |
| 伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。 |
| 職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。 |
| 60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を励ましたりもする良い機会となった。 |
| さらに死後、弟子を自認し、その思想を継承した平田篤胤らがいる。 |
| 遺言に自分の墓のデザインを示した。 |
| 昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年(1999年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。 |