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プロフィール
- 本庄繁とは
- 略歴
- 満州事変
- 二・二六事件
- 遺書
- 関連書籍
本庄繁(ほんじょうしげる、明治9年(1876年)5月10日-昭和20年(1945年)11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10 師団長・関東軍司令官・ 侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。長男一雄は陸軍主計中佐。娘は 山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。
略歴
| 明治9年(1876年)5月、農業本庄常右衛門の長男として生まれる。 |
| 兵庫・鳳鳴義塾中学で学び、明治27年(1894年)9月陸軍幼年学校に進む。 |
| 明治29年(1896年)5月、陸軍中央幼年学校を卒業し、同9月、陸軍士官学校に入校。 |
| 明治30年(1897年)11月、士官学校(9期)を卒業する。 |
| 明治31年(1898年)6月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第20連隊附を命ぜられる。 |
| 本庄は士官候補生第9期であるが、この同期には他に大将まで進むものが5人いる。 |
| 真崎甚三郎・阿部信行・荒木貞夫・松井石根・林仙之である。 |
| 明治33年(1900年)11月、中尉に進級し陸軍士官学校生徒隊附となり、明治35年(1902年)8月から陸軍大学校(19期)に入校するが、明治37年(1904年)2月、日露戦争を理由に中退となり同年4月、歩兵第20連隊中隊長に任ぜられ5月から出征する。 |
| 同6月、戦地に於いて大尉に進級し、10月に戦傷。 |
| 11月に帰還し、明治38年(1905年)1月から陸軍省出仕の辞令が下り大臣官房附となる。 |
| 明治39年(1906年)3月に陸軍大学校に復校し、翌年11月に卒業。 |
| 参謀本部出仕に移る。 |
| 明治41年(1908年)4月、参謀本部員・同年9月の参謀本部附を経て同12月から参謀本部員の資格で北京・上海に駐在。 |
| 明治42年(1909年)5月、少佐に進級し、大正2年(1913年)1月に内地に戻り参謀本部支那課員となる。 |
| 同年6月から陸軍大学校兵学教官を兼ね、大正4年(1915年)6月の中佐進級の後、7月からヨーロッパに出張。 |
| 大正5年(1916年)3月に帰国し、大正6年(1917年)8月6日、参謀本部支那課長代理、大正7年(1918年)6月10日、大佐に進級して参謀本部支那課長となる。 |
| 大正8年(1919年)4月1日、歩兵第11連隊長に移り、同年8月からシベリア出兵に参加。 |
| 大正9年(1920年)8月に帰還し、大正10年(1921年)5月には参謀本部附で張作霖軍事顧問に就任する。 |
| 大正11年(1922年)8月少将に進級、大正13年(1924年)8月には歩兵第4旅団長に進む。 |
| 大正14年(1925年)5月支那在勤帝国公使館附陸軍武官に就任。 |
| 昭和2年(1927年)3月、中将に進み、昭和3年(1928年)2月には第10師団長に親補される。 |
| 昭和6年(1931年)8月、関東軍司令官に進み、翌年8月8日に軍事参議官となる。 |
| 昭和8年(1933年)3月23日勲一等瑞宝章を受章、4月から侍従武官長となり、6月には陸軍大将に親任される。 |
| 7月28日、満州事変の功により功一級金鵄勲章を受章。 |
| 昭和9年(1934年)4月29日、勲一等旭日大綬章受章。 |
| この他満州国から大勲位蘭花大綬章を受章、昭和10年(1935年)12月26日には日露戦争・第一次世界大戦・満州事変の功により男爵を授爵し華族に列せられる。 |
| 昭和11年(1936年)3月、待命となり翌4月に予備役編入。 |
| 軍を退いてからは昭和13年(1938年)4月に新設の傷兵保護院総裁、昭和14年(1939年)7月から軍事保護院総裁となり、昭和20年(1945年)5月からは枢密顧問官に就任する。 |
| 同年9月から補導会理事長を兼ねる。 |
| 昭和20年11月、GHQから逮捕令が下る。 |
| 本庄は11月20日、陸軍大学校内の補導会理事長室で割腹自決。 |
| 墓所は東京都・多磨霊園。 |
満州事変
| 1931年(昭和6年)8月1日、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任。 |
| その一ヶ月後に柳条湖事件が起こる。 |
| 元々本庄が満州に渡る前から満州の情勢は不安定であり、1928年(昭和3)年6月4日の張作霖爆殺事件や、その子張学良の満鉄併行線建設、万宝山事件や中村大尉事件等の事件が続発している状態だった。 |
| 本庄は柳条湖事件の報せを旅順の官舎で聞いた。 |
| 本庄は9月7日から大石橋・鞍山・奉天・興安嶺・長春・遼陽と各駐屯部隊の検閲を行い、18日午後十時に漸く帰宅したところであった。 |
| その一時間後風呂で疲れを取っているところに高級参謀の板垣征四郎から緊急の電話が入った。 |
| 午後十時三十分頃奉天で支那軍と戦闘が始まり、緊急時であるから板垣の独断で独立守備隊を動かしたとの連絡だった。 |
| 直ちに本庄は軍装に着替え、軍用列車で奉天へ向った。 |
| この間作戦参謀の石原莞爾が持参した遼陽にある第2師団の奉天派遣を決済し、全関東軍に出動を命じた。 |
| 本庄は全軍出動について不安があったようだが、移動中の軍用列車の中で大丈夫かを石原に尋ねると石原は『絶対に問題は起こりません。 |
| 関東軍司令部条例第三条、軍司令官の管外出兵権条項に基づくものです』と答えた。 |
| 奉天は関東軍によって占領され奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が奉天臨時市長に就き、その他の満鉄沿線地帯もまた占領されていった。 |
| 参謀本部のこの件に対する方針が後になって決定され、関東軍の出兵は自衛権の発動であるから認めるが、これ以上は武力行使を拡大しないとのもので、政府もこれを追認して閣議決定した。 |
| しかしながら、中央の命令無しで越境出撃した朝鮮軍の応援を得て、関東軍は錦州、ハルピンと占領地を拡大し続けた。 |
| 中華民国側は蒋介石がこの件を国際連盟に提訴するが、イギリス代表が日本への信頼感を表明したため、蒋介石の思惑はあたらなかった。 |
| その後1932年(昭和7年)3月1日に満州国の建国が宣言され、本庄は1932年(昭和7年)8月8日に軍事参議官の辞令が出たため東京へ戻り、関東軍の軍状について天皇に拝謁し奉告する。 |
| 天皇の下問の中に『柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか』とあった。 |
| 之に対し本庄は『関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりませぬ』と答えている。 |
二・二六事件
| 本庄は、1933年(昭和8年)4月から侍従武官長に就任する。 |
| 昭和天皇に近侍するこの職にある時に二・二六事件が起こる。 |
| 『尊皇討奸』をスローガンに高官を襲撃した事件は、本庄の日記に詳しい。 |
| 本庄はこの件に関して叛乱将校を擁護する発言をしたため、昭和天皇の厳しい叱責を受けた。 |
| 本庄は、日記にこのやり取りを詳細に記しており、叛乱軍に激怒する昭和天皇の肉声を伝える貴重な資料として、頻繁に引用されている。 |
| 事件翌日の27日、この日は事件の収拾に概ねの方針が定まり、叛乱軍鎮定の奉勅命令が下された日である。 |
| 方針が決まったとはいえ、昭和天皇は事件の報せを聞いて以来一貫して断固鎮定の方針であった。 |
| 発生以来決まっていなかったのは陸軍首脳で、天皇の意思を知りつつも叛乱将校に同情的でありどうにも進まなかった。 |
| 本庄もその一人で、また蹶起関係者の一人山口一太郎大尉は本庄の女婿であった。 |
| 『御前に進むこと十三回』青年将校の国を思う精神は認めてほしい旨を幾度も奏上している。 |
| この時昭和天皇が発したのが『朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン』である。 |
| 事件後本庄は自ら軍を退く。 |
遺書
| 多年軍ノ要職ニ奉仕致シナカラ御国ヲシテ遂ニ今日ノ如キ破局ニ近キ未曾有ノ悲境ヲ見ルニ立到ラシメタル仮令退役トハ云ヘ何共恐懼ノ至リニ耐ヘス罪万死ニ値ス。 |
| 満州事変ハ排日ノ極鉄道爆破ニ端ヲ発シ関東軍トシテ自衛上止ムヲ得サルニ出テタルモノニシテ何等政府及ヒ最高軍部ノ指示ヲ受ケタルモノニアラス全ク当時ノ関東軍司令官タル予一個ノ責任ナリトス爰ニ責ヲ負ヒ世ヲ辞スルニ当タリ謹テ聖寿ノ万歳、国体ノ護持、御国ノ復興ヲ衷心ヨリ念願シ奉ル。 |
| 昭和二十年九月本庄繁花押。 |
関連書籍
| 林政春 『陸軍大将本庄繁』 非売品(昭和42年)。 |
| 本庄一雄編 『武人青州』 昭和55年。 |
| 『本庄日記』 原書房(昭和42年、新版平成17年)、ISBN4562039493。 |
| 『本庄繁日記 (I・II)』、山川出版社(昭和57-58年)。 |
| 宮崎滔天、萱野長知、北一輝 『アジア主義者たちの声(中)』 書肆心水、2008年。 |
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1876年
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農業本庄常右衛門の長男として生まれる |
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1896年
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陸軍中央幼年学校を卒業し、同9月、陸軍士官... |
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