| 母には責められたが、小さな損失が大きな利益につながるのだと弁明した。 |
| 県長の度尚に推挙され、韋毅が太守の時代に郡に仕えるようになり、尹端が太守の時代には主簿となった。 |
| 尹端は賊の許昭の討伐に失敗し、揚州刺史の上奏により死刑にされそうになるが、朱儁は密かに京師に行き、役人に賄賂を贈り、上奏文の内容を訂正させることに成功したため、尹端は流刑に減刑された。 |
| 尹端は刑を減じられたことを喜んだものの、誰の仕業によるものかはとうとうわからなかった。 |
| 徐珪が太守の時代に孝廉に推挙され、蘭陵県令となる。 |
| 蘭陵での働きぶりが、東海国の相の目に止まり、中央に報告された。 |
| 178年、交趾の反乱が長引くと、朱儁が交趾の刺史に抜擢され、鎮圧に当たることになった。 |
| 朱儁は故郷で五千の兵を集め、十分な偵察をした上で、交趾へ二方面から堂々進軍し、敵の士気をくじいた上で、交州七郡の兵力を結集し、反乱の首領の梁龍を斬って乱を平定した。 |
| この功で千五百戸の都亭侯に封じられ、中央に召されて諫議大夫となる。 |
| 184年、黄巾の乱が起こると右中郎将に任命され、左中郎将の皇甫嵩らと各地を転戦、平定し、西郷侯と鎮賊中郎将に任じられる。 |
| この時、同じ揚州出身の孫堅を召しだしている(『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」)。 |
| その後、南陽の趙弘を司馬の張超や荊州刺史徐璆、南陽太守秦頡達と共に長期間の包囲戦の後に下し、さらに逃亡して宛に拠った韓忠を降参させ斬り、その残党の孫夏も滅ぼした。 |
| 185年に右車騎将軍、光禄大夫、銭塘侯に封じられ特進の位も得て、食邑五千を加増された。 |
| 母の喪に服し辞任するが再び中央に召され、将作大匠、少府、太僕と歴任する。 |
| 黄巾の残党が各地で蜂起し、その一人である張燕は一時朝廷に降伏していたが、後に反旗を翻し洛陽をおびやかした。 |
| 朱儁は河内太守に転出し、賊を退却させると再び光禄太夫に任命され、城門校尉、河南尹に転任した。 |
| 董卓が洛陽に入り朝廷を左右するようになると、董卓は朱儁を表面的には優遇したが、内心では嫌っていた。 |
| 朱儁もまた董卓の専横を良しとせず、遷都の計画にも反対した。 |
| 董卓は太僕として朱儁を手元に置こうとしたが、朱儁はこれを拒絶した。 |
| 董卓が長安へ行き朱儁が洛陽へ留め置かれると、山東の反董卓勢力と連絡を取り内応を約束するが、董卓に襲われることを恐れて荊州の劉表を頼って出奔する。 |
| のち兵士を率いて洛陽へ戻り董卓が任命した河南尹の楊懿を追放したが、戦乱で荒れ果てていたため、中牟に移り、その地に駐屯した。 |
| 朱儁は独自に董卓打倒の軍を起こそうと諸郡に働きかけ、徐州刺史の陶謙などがこれに呼応したが、董卓が洛陽に駐屯させた李と郭汜の軍を抜くことができなかった。 |
| 董卓が誅殺され李と郭汜が長安を支配すると、陶謙に太師になることを勧められ、さらに朱儁に味方する陶謙や孔融、応劭、徐璆、服虔、鄭玄達は連名して献帝を迎えることを上奏した。 |
| それに対し、李達は太尉周忠と尚書賈詡の計らいで朱儁を中央に招聘した。 |
| 朱儁は天子の招聘を受けたら応じるのが臣下としての務めであること、また、李や郭汜達はつまらない人物であるから乗じる隙もあるだろうと考えそれに応じ、陶謙達と袂を分かち入朝した。 |
| 太僕となり、193年には太尉、録尚書事となった。 |
| 日食により職を免じられたが、194年には驃騎将軍となった。 |
| 関東に出鎮する途中、李達が内紛を起こし朝廷が乱れると、長安に留まることにし、大司農となった。 |
| 李達の和睦を図るも郭汜に人質とされ、性格が剛直であったため憤り病を発し、同日病没した。 |
| 子の朱皓(字・文明)は予章太守となり、先任の諸葛玄(諸葛亮の叔父)と争い、ちょうど孫策に敗れて豫章に逃れていた揚州刺史の劉繇と手を組んでこれを追放したが、独立を図った笮融に殺害された。 |
| 『後漢書』によると才幹はある人物とされるが、『三国志』呉志「劉繇伝」が引く「献帝春秋」によると、人を疑うことをしない人物と許劭(許子将)に評価されていたという。 |
| 別の子である朱符は交州刺史となったが、異民族の反乱により殺害された(『三国志』呉志「士燮」伝)。 |