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プロフィール
- 朴正煕とは
- 経歴
- 出自
- クーデター
- 大統領としての施策
- 開発独裁
- 政権末期、そして暗殺
- 死後の評価
- 肯定的な評価
- 否定的な評価
- 清廉
- 関連サイト
朴正煕(パク・チョンヒ、、1917年11月14日(時憲暦9月30日)-1979年10月26日)は、大韓民国の軍人・政治家。クーデターで政権を奪取して第5-9代大統領(在任:1963年-1979年)を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。号は「中樹」(チュンス、)。日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は 高木正雄(たかぎまさお、-1945年)。日本では1984年の 全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。 陸英修は妻、ハンナラ党元代表の 朴槿恵は長女、EGテック現会長の 朴志晩< ...
経歴
| 1917年11月14日生誕。 |
| 1932年大邱師範学校入学。 |
| 1936年最初の結婚。 |
| 1937年3月大邱師範学校を70人中69位卒業。 |
| 1940年4月満州国軍軍官学校に240人中15位入学。 |
| 1942年満州国軍軍官予科を首席卒業。 |
| 1942年日本陸軍士官学校に編入(57期相当)。 |
| 1944年日本陸軍士官学校3位卒業。 |
| 満州国軍歩兵第8師団に配属。 |
| 1945年8月満州国軍中尉で終戦を迎える。 |
| 1946年9月国防警備隊士官学校入学(2期)。 |
| 1946年12月国防警備隊士官学校卒業。 |
| 国防警備隊大尉に任官。 |
| 1948年粛軍運動で逮捕。 |
| 1949年4月軍法会議で執行免除の無期懲役、軍籍剥奪され、情報局嘱託となる。 |
| 1950年韓国陸軍少佐戦闘情報課長を復命。 |
| 1950年陸英修と再婚。 |
| 1951年韓国陸軍本部作戦部次長。 |
| 1953年韓国陸軍准将。 |
| 1959年韓国陸軍少将。 |
| 1951年韓国陸軍本部作戦部次長。 |
| 1961年5月16日5・16軍事クーデターを起こし、国家再建最高会議議長に就任。 |
| 1962年3月24日大統領権限代行 |
| 1963年10月15日韓国大統領に就任。 |
| 1974年8月15日文世光事件。 |
| 暗殺未遂、陸英修が被災し死去。 |
| 1979年10月26日暗殺される(朴正煕暗殺事件)。 |
出自
| 朴正煕は、日本統治下の朝鮮の慶尚北道善山郡亀尾(クミ、現在の亀尾市)で、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。 |
| 父親は科挙に合格したが、韓国が併合された後に没落し、墓守をしていた。 |
| 小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという農村部貧困家庭の末子であったことは、朴正煕のメンタリティーを考えるうえで重要な要素である。 |
| 家が貧しいうえに病弱だったが、亀尾小学校を優等で卒業。 |
| 大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で3年間教師をした後、日本国籍のまま満州国軍の新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。 |
| 優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。 |
| その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。 |
| 1944年に日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。 |
| 朴正煕が旧日本陸軍の軍人だったという誤解があるが、上記のように満州国の軍人として日本の士官学校に派遣留学を命じられたに過ぎず、日本軍人として任官したことはない。 |
| 1946年10月、10・1暴動で兄の朴相煕が共産党幹部として警察に殺害された。 |
| 1948年に大韓民国が建てられると、大韓民国陸軍に入り、陸軍士官学校を卒業した後、大尉に任官された。 |
| 一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告された。 |
| しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放された。 |
| 朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、更に戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。 |
| 休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。 |
| その後は、1955年7月14日には第5師団長、1957年には陸軍大学を卒業して第7師団長、1959年7月1日には第6管区司令官、1960年1月21日には釜山軍需基地司令部司令官、同年12月15日には第2軍副司令官となった。 |
クーデター
| 1961年5月16日、張都暎陸軍中将(当時)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。 |
| 反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。 |
| 決起に関する謀議は李承晩が退陣に追い込まれた四月革命の過程と同時進行だったことがわかっている。 |
| 学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、軍が突然、政治の舞台に踊り出たことは多くを驚かせた。 |
| 軍は朝鮮の政治史において例を見ない巨大勢力だったクーデターによって軍の存在が政治勢力として初めて認識された。 |
| 軍を政治勢力として捉えるならば、韓国軍は当時において最大であるだけではなく朝鮮の歴史において最大の政治勢力だったと言える。 |
| 韓国軍はクーデター時に約60万人を擁していた。 |
| これに比して、韓国併合時に日本によって解散させられた朝鮮軍は6000人でしかなかった。 |
| このことは長い李氏朝鮮の歴史において軍備が縮小される一方だったこととも関係している。 |
| 当時、陸軍少将の階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデターグループのリーダーになった。 |
| 陸士8期生は解放後初めて韓国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった陸軍士官学校第8期生はそれまでの士官と性格を異にしている。 |
| 韓国の陸士第1期生から第7期生までは旧日本軍(朝鮮軍)の勤務者と、即席で訓練されて士官になった者たちで編成されていた。 |
| これに対して第8期生は1年間の訓練を受けている点、第1期生から第7期生を合わせた数に近い1800人を擁していたという点などで特異な存在だった。 |
| これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。 |
| クーデターグループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布いた。 |
| 金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣僚を逮捕した。 |
| 6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)を発足させた。 |
| 7月3日には張都暎を失脚させ、軍事政権のトップに立った。 |
| その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとなり、アメリカ大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従い、大将に昇進した。 |
| 訪米の往路日本に立ち寄り、11月12日に池田勇人首相と会談、早急なる国交正常化で合意した。 |
大統領としての施策
| 前大統領の尹善を破り、自らが大統領の座に就く。 |
| 1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。 |
| 日韓基本条約は植民地支配を清算するものでなく、僅かばかりの金で国を売るものであるとして、民主化活動家の大学生に市民も加わった韓国民と野党議員たちの激しい抵抗の中、日本との条約締結が強行された。 |
| その後、アメリカの要請に応じてベトナム戦争への派兵も決定するが、次第にアメリカ軍の敗色が濃厚となるに従い、ナショナリスト的な立場からアメリカから離れていく。 |
| 西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。 |
| 国防の面では、中華人民共和国の核兵器開発に対抗して、密かに核・ミサイル開発に着手してアメリカと衝突して中止するなど、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに基づく独自の自主国防計画を推進することになる。 |
| 1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日の演説で平和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。 |
| 国内では、1972年10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中事件に代表されるような中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った2007年10月、韓国政府は、1973年朴正煕政権の方針に反発して日本で民主化運動を推し進めていた金大中が日本で拉致された、所謂金大中事件に関して、韓国中央情報部(KCIA)の関与があり、同時にそれを統括・指揮していた朴正煕から暗黙の了解を得て行っていたとする公式発表を行った。 |
| そのうち、1975年11月22日の「学園浸透スパイ団事件」は同時代の日本でも大きく報道された「学園浸透スパイ団事件」はソウルに留学していた在日韓国人・徐勝と徐俊植の兄弟が首謀者とされたことや、徐勝が顔から半身に火傷を負った姿で法廷に現れたことなどから、日本で騒がれた。 |
開発独裁
| 国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財閥や国策企業を通じて、ベトナム戦争により得たカネとモノを重工業に重点的に投入した。 |
| しかし、国外からは、反共同盟の強化を意図するアメリカ政府や日本政府などを除けば、朴正煕政権は批判的に評されることが多かった。 |
政権末期、そして暗殺
| 1974年8月15日、日本植民地統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受け、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。 |
| なお、この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し日本警察から強奪したものであったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を日本側が擁護し続けたこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。 |
| 釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。 |
肯定的な評価
| 朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていたが、民主化後その達成感によって運動が退潮し始めたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げ、韓国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめる事となる足がかりを作った事や、治安の良さを再評価する動きが出て来た。 |
| 特に政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。 |
| ネットユーザーからは「親日派として罵倒するのは問題がある」、「朴正煕大統領が親日派だったら、日本統治時代に生まれ育ち、日本の教育を受けた人はみんな親日派である」、「親日派であるかもしれないが、国民生活の向上に力を入れたことは評価すべき」、「韓国が発展できる基盤を作ったことは重要」と、功と過を正しく評価すべきとの声も多く上がっている。 |
否定的な評価
| 批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際2005年8月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第1回リストに記載された。 |
| 2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には保守派の反対を受け、彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。 |
| ベトナム戦争自体にベトナムの独立運動を妨害・抑圧する性格(当時の植民地解放闘争は共産主義との関連が強かった、ベトナム戦争も参照)があったのではないかという問題もあって、ベトナム人の視点からすれば朴大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であるとベトナム人の多く、および韓国・日本の左派の歴史学者を中心に指摘されている。 |
| とりわけ、韓洪九は自著『韓洪九の韓国現代史』(元はハンギョレ新聞連載コラム)でベトナム戦争の植民地解放運動への圧迫としての面を重視し、日本による侵略に苦しんだ韓国の近現代史と重ねながら、朴大統領のベトナム戦争参戦を批判している。 |
清廉
| 朴は日本の英文学者・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。 |
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1917年
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なお、出生日をとする文献等があるが、これは... |
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1937年
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大邱師範学校を70人中69位卒業 |
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