| 幼時に母親が死んだため、材木商の養女にもらわれ何不自由なく育つ。 |
| 山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家になるべく上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗。 |
| 広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていたが、築地小劇場(俳優座の前身)の旅芝居を見て感動。 |
| 再び上京してテストを受けるが、広島訛りがひどくまたも不合格。 |
| しかし、次回公演の背中を向けてオルガンを弾く役(台詞無し)で採用され築地小劇場最後の研究生となる。 |
| こうして以後70年に及ぶ演劇人生の第一歩を踏み出す。 |
| 築地小劇場の分裂・解散、次に加わった築地座の解散を経て1937年、岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加。 |
| 以来、同座のみならず、日本演劇界の中心的存在として活躍。 |
| 特に戦時1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。 |
| 作中の台詞"だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの―"は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村の代名詞として有名。 |
| 1948年には演劇部門で戦後初の芸術院賞受賞。 |
| しかし、1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し、現代演劇協会・劇団雲を結成。 |
| さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を何本も書いていた三島由紀夫の新作戯曲上演拒否問題(喜びの琴事件)が起こって、三島を筆頭に丹阿弥谷津子、中村伸郎、賀原夏子、南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった。 |
| 杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった週刊朝日1978年1月6日号、130-135頁サンデー毎日1978年10月1日号、56、57頁『軟派昭和史』、スポーツニッポン新聞社文化部、1975年、220頁。 |
| 文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることで何とか乗り切った |
| しかし、杉村の専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、杉村の劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もある。 |
| 戦後、『女の一生』の再演は文学座が立ち直るきっかけとなった。 |
| 経営の苦労が身に染みて知る杉村はお客を大切にした。 |
| このことは新劇の商業演劇進出の走りといわれる『新宿 歴史に生きた女性一〇〇人』、折井美那子・新宿女性史研究会編者、ドメス出版、2005年、97頁。 |
| 『女の一生』のほか、『華岡青洲の妻』、『欲望という名の電車』、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』など創作劇、翻訳劇のいずれの分野でも、リアルな女性像を描き出した。 |
| 舞台のみならず、映画・テレビでも幅広く活躍。 |
| 映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫が監督をした『黎明』か日本経済新聞2009年6月14日24面。 |
| 1932年、初代水谷八重子と共演した『浪子』『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、371頁。 |
| か、1937年、『浅草の灯』『演劇研究第8集』、演技研究所、371頁。 |
| か、文献によって記述が異なる「『浪子』はほとんどセリフがない役だったので、自分としては『浅草の灯』が最初の作品」と杉村は話していたという(川本三郎『君美わしく―戦後日本映画女優讃』文藝春秋、1996年、147頁)。 |
| その後も小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、豊田四郎、木下惠介といった名監督たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価され、『東京物語』を初め日本映画史を彩る名作群約100本に出演、映画史にもその名を刻んだ。 |
| 森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもある。 |
| 杉村は多くの演劇人の目標であった |
| 小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優高橋治『絢爛たる影絵小津安二郎』、文藝春秋、1982年、57頁。 |
| 高峰秀子が『小島の春』を観た際に杉村の演技に感動、「仕方なしにやっていた(本人談)」役者稼業に以後本気で取り組むようになったという逸話も残す週刊朝日1980年1月4日号、142頁。 |
| 森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。 |
| 時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」と話している森光子『人生はロングラン』日本経済新聞出版社、2009年、218頁。 |
| 成瀬巳喜男監督『流れる』で共演した山田五十鈴は、あの映画の杉村さんの芝居は、ぜんぶ杉村さんがお考えになったもの、「そういうことが許されるようになった時代です。 |
| それこそ役者の力量が問われる時代になってきたんです」と述べている川本三郎『君美わしく―戦後日本映画女優讃』文藝春秋、1996年、302頁。 |
| 若尾文子は「杉村春子さんは特別な存在」と話し、杉村の代表作『華々しき一族』を熱望し2008年に演じた |
| 吉永小百合は美しい所作の先生は杉村と話している |
| 2011年、第34回日本アカデミー賞で最優秀助演女優賞を受賞した樹木希林は、「50年ほど前に役者を始めた時に杉村春子さんに『役者は定年がない』と言われました。 |
| 今、しみじみそう思います」と語った |
| 1940年に初演された山田耕筰の歌劇『黒船』では姐さん役を担当している。 |
| これは、彼女の声こそ日本語でオペラを歌うのにふさわしいと山田が判断したことによる。 |
| 日本の伝統演劇、女形芸などを熱心に吸収し、色艶の有る独持の演技を完成させる。 |
| 酒もたばこもたしなまず、ひたすら仕事と恋に生きた。 |
| 生涯愛した三人の男(最初の夫、森本薫、二度目の夫)には全て、それも結核で先立たれた。 |
| しかしその都度女優として成長し、恋は芸の肥やし、と言うがまさに男の精気を吸い取りながら←大仰な表現であり、検証も不可能?なのでコメントアウト。 |
| -->芸を追求した。 |
| 1974年、女優としては東山千栄子、初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。 |
| 1995年には文化勲章の候補に名があがったが、「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。 |
| 勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と周りの説得も聞かず辞退した。 |
| 1996年日本新劇俳優協会会長。 |
| 1997年70年の芸能生活で仕事を一度も降りたことがなかった杉村だが、1月19日NHKドラマ『棘・おんなの遺言状』の収録中に貧血と腰痛を訴えて入院し降板、代役は南美江が演じた。 |
| 2月に入り文学座の会見では「十二指腸潰瘍」と発表されたが、そのときすでに膵臓癌でもあると、医師から文学座の社長・戌井市郎・北村和夫・江守徹など近しい人にだけ知らされていたという。 |
| 3月に新橋演舞場で予定されていた『華岡青洲の妻』も、チケットが発売されている状態での緊急降板、代役は藤間紫が演じた。 |
| しかし病室では簡単なストレッチをしたり、男性の見舞い客が来ると聞くと長い時間をかけてお化粧をしたりと常に弱っている姿を見せまいと気丈に振る舞っていたという。 |
| 3月16日に意識が混濁、4月4日午前0時30分頭部膵臓癌のため東京都文京区にある日本医科大学病院で、長女のヒロ、当時70歳の長年のファン女性二人に最期を看取られ逝去。 |
| 本人は癌であることは知らされず亡くなる直前まで台本を読んでおり、最期まで女優であり続けた。 |
| 終生、外反母趾であった。 |
| -->死後、政府から銀杯一組が贈られた。 |
| 杉村の死後1998年、若手演劇人の育成に力を注いだ杉村の遺志を尊重し、新人賞的意味合いを持つ杉村春子賞が新たに創設された。 |