| 池内宏池内宏「鮮初の東北境と女真との関係」や山内弘一や岡田英弘岡田英弘『皇帝たちの中国』や宮脇淳子宮脇淳子『世界史のなかの満州帝国』らは李成桂が女真族或いは女真族の血を引いている可能性を指摘している。 |
| また、室谷克実は崔南善が著書『物語朝鮮の歴史』において李氏朝鮮の創建過程を簡素に書いたのは李成桂が女真族であることを認識していたからではないか、と述べている『日韓がタブーにする半島の歴史』新潮新書。 |
| 李成桂女真族説の根拠としては次のことが挙げられる。 |
| #李氏朝鮮の第4代国王世宗(1397年5月7日~1450年5月18日)の時代に建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面に領土拡張を行い、また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行い、朝鮮の領土に組み込み併合するまでは、李氏一族の出身地の咸鏡道を含む朝鮮半島北部(咸鏡道・平安道)は、新羅・高麗の領土となったことはなく女真族の領土であり、女真族居住地域だったこと。 |
| #李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結んでいること。 |
| 野史の記録で正史ではないが、野史だからといって誤りではない。 |
| また、彼は李成桂に臣服して戦功を立て、後開国功臣に列せられるなど特殊な関係があったことは事実である。 |
| #李氏一族は女真族の配下を多数抱え、李氏一族が頭角を現したのはかれらの助けが大きかったこと。 |
| #李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持ち、さらに、祖父李椿は孛顔帖木兒、李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟は完者不花、那海など李氏一族は皆モンゴル名を持っていること。 |
| (ただし、高麗人も貴族はモンゴル名を持っていた)。 |
| #のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『龍飛御天歌』によると、李氏一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと。 |
| 神道碑は李氏の遠祖を全州の大姓、穆祖をもって知宣州となし、しかも穆祖自ら全州より宣州に移れりとは言わざるに、これには穆祖、全州より三渉に入り、後、徳源に移れりとなし、かつその遷徒の事情を示し、穆祖が170餘家の移民を従えたりというがごときも、神道碑の伝えざるところで、穆祖の元に帰したる後の佳地は、南京或いは孔州とせられずして、慶興の斡東とせられ、斡東における翼祖の危難、その危難によって赤島に遁れし前後の事情も、すこぶる詳細に敍せられている。 |
| かくのごとき穆・翼二祖の事績とせられるものに著しき潤色が加えられている。 |
| #李氏一族の家系図には、李氏一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないこと。 |
| #元に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されて、元初期には一部の女真族がモンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李安社はダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任されたこと。 |
| (ただし、高麗人ダルガチがいなかったわけではない |
| #千戸長として女真族の統治を行っていたこと。 |
| #姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元の家来で、元の開元路出身であること。 |
| 岡田英弘と宮脇淳子は、「双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった岡田英弘宮脇淳子研究室『 |
| #『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。 |
| その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。 |
| すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造であると考えられるが、情況証拠しかなく、立証する術はない。 |
| しかし、李氏朝鮮王室が全州李氏を大切に扱ったという記録もない。 |
| #李成桂の父子春は、高麗を東北方面からおさえるモンゴル勢力の拠点であった永興の双城総管府につかえ、千戸(千人隊長)の役職についていたが、高麗恭愍王がその5年後(1356年)にこの総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗に投じ、北に移って咸興を活動舞台とした。 |
| 4年のち(1360年)李子春は死に、李成桂が家を継いで、東北面上万戸(万人隊長)の職についた。 |
| 李成桂の活動は、まず咸興から豆満江方面におよぶ女真部族の平定、つぎに鴨緑江上流方面の女真部族、モンゴル勢力の残存するものを討伐し、やがて中央に召し出されて国都の防衛、南方の倭寇討伐にしたがった。 |
| #『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次の記事がある。 |
| 「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。 |
| 生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。 |
| 」これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。 |
| 彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。 |
| 遊牧民や狩猟民のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とするから、父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。 |
| だから、李成桂の伯母/叔母が女真の族長に嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂の祖父は女真の族長と結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。 |
| どちらの意味にしても、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。 |
| 『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である。 |
| 【韓国側】李成桂は女真族だが朝鮮王朝がそれを隠したというなら、朝鮮建国の前である1383年に書かれた神道碑に同じ内容が書かれている事を説明できない。 |
| また、1については、李成桂の祖だけでなく朝鮮前期まで普通だったのでこれだけで女真族と断定するのができない徐居正、『成化譜』序文、1476。 |
| また、李氏朝鮮王室では「璿源先系」(李成桂の4代の祖の子孫ではない全州李氏)を王族として認めたのでこれは真実ではない。 |
| そして、高麗時代にも李成桂を女真族と認識した跡形がない 2004。 |
| たとえば、李成桂は当時の名門家である谷山康氏の娘(神徳王后)と結婚したし、李成桂の息子達も新興武家である忠州池氏、当時の名門家である驪興閔氏、鐵原催氏、星州李氏、やがて王族(恭譲王の姪)と結婚した。 |
| 対照的に、女真族である李之蘭は、醜聞で問題視された女が司憲府の調査を避けるために李之蘭と結婚した『高麗史』、巻129、列伝 第29 李豆蘭時判書金世德妻尹氏寡居數年有穢行其母以嫁前洪州牧使徐義纔數日尹氏惡義而出之憲司劾之遣卒守其家李仁任等受尹氏厚賂謀欲寢之謂豆蘭屢立邊功以尹氏妻之。 |
| 【日本側】神道碑、定陵碑、龍飛御天歌、李朝実録、高麗史などの李氏一族の伝承の史料解釈上、李成桂の父祖として伝えられる四祖(穆祖、翼祖、度祖、桓祖)のうち、信じうるのは父と祖父のみで、それ以前は系譜を長くするため作為された架空の人物であり、父と祖父は事跡については創作と考えられている池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」。 |
| 桓祖は、ただわずかに信をおき得べきは、彼が双城付近の千戸としてその地の土民の間に多少の勢力を有していたことにして、その他の伝説は双城攻破の際における桓祖の功業、元への上表を裏面に包める入朝親喩、これより以前に起れる桓祖并に父祖の入朝など一として信頼に値すべきものなく、これらの伝説はことごとく抹殺せざるを得ない。 |
| 伝説・系図の制作は、李公神道碑建立の際においてせられ、鄭惣が定陵碑を撰する際に系図の延長、李成桂の王氏に代わるとともに穆祖の伝説の南京より孔州に移転、野人古慶源の地を侵奪して翼祖の伝説の変化、龍飛御天歌の編纂において穆・翼二祖の伝説の周の祖先の伝説に擬するなど特殊の機会と必要とに応じて、その形態の変化が見られる。 |
| のちに15世紀になって編纂され、王朝創建の偉業を称えた頌詠歌集龍飛御天歌及び高麗史は世宗の時、同一なる編者の手により成った書で、しかし高麗史は李成桂即位の四年、判三司事鄭道傳・政堂文学鄭惣等、はじめて高麗太祖より恭讓君にいたるまで三十七巻を撰進せし後、大宗しばしば史臣に命じて改修竄定せしめ『李朝太祖実録』巻七、太祖李成桂のごときは、史官の極諫を用いずして、鄭道傳・鄭惣等の既修に関わる恭愍王以来の高麗史及び王申以来の史草を親覧したることなれば『李朝太祖実録』巻十四、七年閏五月および六月の條、これらの史書及び文宗元年上進せられし今の高麗史に見えたる李朝の祖先に関する記事に曲筆ないし潤色の跡ありと考えられる。 |
| 「高麗時代に女真族と認識した跡形がない」「名門家と結婚している」のは、女真族であることを偽り高麗人を装い、祖父以前は架空の人物で李朝の祖先に関する事跡は創作であるためである。 |
| 李成桂の祖父の後妻趙氏が双城総管の女、度祖が元の宣命を受けて亡父の職を襲げり、その配朴氏が斡東の百戸の女、塔思不花没後の継承の争議に関して元の裁断を仰いだというのは、四祖の伝説が双城と元とに結合させられることより派生したもので何等措信の価値あるものにあらずと考えられている。 |
| また、龍飛御天歌によると、李氏一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたが、やがて咸鏡道に移住したというが、そのことは李氏一族が女真族の血を引くことを否定するものではない。 |