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李淵
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皇帝
565年
635年
恭帝侑
隋
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プロフィール
李淵とは
即位前
群雄争覇戦
対仏教政策
后妃
子
女
参考文献
関連項目
李淵(りえん)は、唐朝の初代皇帝(在位:618年6月18日-626年9月4日)。隋末の混乱の中、長安を落として根拠地とし、
恭帝侑
を隋の正統として
立て
、その禅譲により唐朝を建国した。李淵の属する李氏は、史書では西涼の李暠の末裔とされ、隴西成紀を本貫とする漢民族とされているが、実際は鮮卑系の出身で、本来の姓は大野氏であり、中原の支配権を正当化するために、自分は漢民族の先祖を持っていると主張した。
即位前
李淵は、北周の唐国公・安州総管を務めた李昞(仁公)の子として生まれた。
その出身である隴西李氏は、北周の八柱国の家系で、北魏においては皇后を出す資格のある家柄として続いた北朝の名門であった。
隋の
文帝
の独孤皇后が李淵の叔母にあたるため、李淵は
文帝
に親愛された。
李淵は隋の千牛供身となり、譙隴二州刺史・岐州刺史・滎陽楼煩二郡太守・殿内少監・衛尉少卿を歴任した。
隋の
煬帝
が高句麗遠征(麗隋戦争)を挙行すると、懐遠鎮で軍の糧食の運搬を監督した。
楊玄感
の乱が起こると、弘化留守となり、関右の諸軍を統率して玄感の進軍を防いだ。
615年、山西河東慰撫大使に任ぜられ、龍門の母端兒の乱を討伐した。
また絳州の柴保昌を攻撃して降した。
突厥が隋の辺境を侵すと、馬邑太守の
王仁恭
とともに突厥軍を迎撃した。
617年、太原留守に任ぜられた。
次子の
李世民
や晋陽令の
劉文静
らの使嗾により『旧唐書』、『新唐書』の両正史では、李淵の挙兵は
李世民
の画策によるものとされている。
しかし挙兵当時には未成年だった
李世民
の策謀で李淵が動かされたというのは疑わしい。
太宗
李世民
を最高の名君に仕立て上げるために、高祖李淵の人物像は優柔不断で女と酒に弱い人物として矮小化され、
李世民
を唐の実質的な創建者として美化したものと考えられる。
これは布目潮などの説。
、隋に対する反乱を決意。
6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。
長安の留守をしていた代王楊侑を擁立して隋の
恭帝
とした。
群雄争覇戦
618年5月、
煬帝
が
殺された
と知ると、
恭帝
から禅譲を受けて自ら皇帝となった。
この頃、洛陽でも隋の武将であった
王世充
が即位して鄭を建国、河北では群盗の
竇建徳
が一大勢力を築き、長江以南では南朝の梁の末裔である
蕭銑
が梁王朝再興を称するなど群雄割拠の様相を呈していた。
その後
李世民
らの活躍もあり、626年の退位までに
梁師都
以外の群雄を平らげるまでになった。
その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王
李世民
の皇帝を期待する秦王配下の者たちが
皇太子
の座を狙って発言・策動するようになった。
これに対して
皇太子
の
李建成
と
李元吉
はこれを止めるために李淵に世民の謀士である
房玄齢
・
杜如晦
の2人を引き離すよう進言し実施した、その経過の中、李淵は
李世民
に天策上将の称号を与える事で
李世民
派の人達の不満をなだめようとした。
しかし兄弟宥和のための努力も実らず、
李建成
と
李元吉
の先制攻撃の噂情報を入手してそれを回避するためにやむなく起こった、626年の玄武門の変により、
皇太子
李建成
と四男の斉王
李元吉
は
李世民
の配下の兵に殺害された。
高祖李淵はその後国家安定のために、
李世民
に譲位することに同意して太上皇となり。
その後は
宮殿
で政治と離れた環境で静かに暮らし635年に崩御した。
対仏教政策
高祖は、仏教に対しては、唐朝の創業当初は、その存在を容認する立場を取り、また法会も行なっている。
また、唐朝の正統性を擁護するような慧化尼と
衛元嵩
の予言詩を、隋からの受禅に利用したことも、『大唐創業起居注』の中に見えている。
武徳3年(620年)には、正月、5月と9月の三長斎月には刑死を執行せず、また殺生の禁断を命ずるほど、仏教の不殺生戒の周知に努めていた。
しかし、武徳4年(621年)には、隋代に建立された諸道場(隋代には寺院の称を廃して道場に改めていた)を廃止し、洛陽城内には名徳ある僧30名、尼30名のみをとどめ、その余は還俗させた。
さらに、武徳9年(626年)、太史令であった
傅奕
の十一カ条の上奏文の内容に基づいて、高祖は仏教・道教の二教ともに廃毀する詔を発した。
それは、あたかも、40余年前に、北周の
武帝
が
衛元嵩
の上表文をもととして仏道二教を廃したのを彷彿とさせる措置であった。
その詔の文章によれば、徳行ある僧尼、道士女冠は、大寺や大観に住せしめて、その余の者は還俗させ、長安には寺は3ヶ所、道観は2ヶ所を残し、天下の諸州にも各1ヶ所を残し、その余は尽く廃毀させることを求めた。
しかし、同年6月4日の玄武門の変によって高祖は退位して太上皇となったため、詔の内容が実施に移されることはなかった。
后妃
right|thumb|200px|李淵。
郭妤。
劉妤。
子
#息王
李建成
(隠太子)。
#秦王
李世民
(
太宗
)。
#
衛王
李玄霸
。
#巣王
李元吉
(斉王)。
#楚王
李智雲
。
#荊王
李元景
。
#漢王
李元昌
。
#王
李元亨
。
#
周王
李元方
。
#徐王
李元礼
。
#韓王
李元嘉
。
#鄭王
李元懿
。
#霍王
李元軌
。
#道王
李元慶
。
#魯王李霊。
#江王
李元祥
。
#密王
李元暁
。
#滕王
李元嬰
。
女
#長沙公主(馮少師に降嫁した)。
#襄陽公主(竇誕に降嫁した)。
#
平陽昭公主
母は竇皇后。
柴紹
に降嫁した。
#
高密公主
長孫孝政に降嫁した。
段綸に再嫁した。
#
長広公主
はじめ桂陽公主に封ぜられた。
趙慈景に降嫁した。
楊師道に再嫁した。
#長沙公主はじめ万春公主に封ぜられた。
豆懐讓に降嫁した。
#
房陵公主
はじめ永嘉公主に封ぜられた。
竇奉節に降嫁した。
賀蘭僧伽に再嫁した。
#九江公主(執失思力に降嫁した)。
#廬陵公主(喬師望に降嫁した)。
#南昌公主(蘇勗に降嫁した)。
#安
平公
主(楊思敬に降嫁した)。
#淮南公主(封道言に降嫁した)。
#真定公主(崔恭礼に降嫁した)。
#衡陽公主(阿史那社爾に降嫁した)。
#丹陽公主(
薛万徹
に降嫁した)。
#臨海公主(裴律師に降嫁した)。
#館陶公主(崔宣慶に降嫁した)。
#
千金公主
のちに
武則天
の養女となり、安定公主に封ぜられた。
温挺に降嫁した。
鄭敬玄に再嫁した。
#常楽公主(趙に降嫁した)。
参考文献
張競『恋の中国文明史』ちくま学芸文庫、1997年。
関連項目
zh-yue:李淵。
李淵 - Wikipedia
より要約
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