70546
70953
918918
%E6%9D%8E%E9%99%BD%E5%86%B0
%E6%9D%8E%E9%99%BD%E5%86%B0
%E6%9D%8E%E9%99%BD%E5%86%B0
%E6%9D%8E%E9%99%BD%E5%86%B0
%E6%9D%8E%E9%99%BD%E5%86%B0
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 李陽冰の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 李陽冰とは
- 経歴
- 篆書との出会い
- 改革としての篆書復興
- 後世への影響
- 作品
- 参考資料
李陽冰(りようひょう、生没年不詳、生年には開元年間(713-741年)説もある)は中国・唐代中期の書家。それまで忘れられていた篆書を用いた碑や刻石をものして一世を風靡し、篆書を書道の一書体として復活させた功績を持つ。
経歴
| 趙郡(現在の河北省)の出身という以外には詳しい経歴は不詳である。 |
| 『新唐書』宰相世系表によると、「将作少監」の官にあったことが記されるほか、759年(乾元2年)から762年(宝応元年)、宣州当塗(現安徽省宣城市)の県令であった間、晩年の李白を庇護したことで知られ、『新唐書』李白伝にもその名が見える。 |
| 李白の死に臨んで、彼から大量の詩稿を託され、詩集『草堂集』として編纂し、自ら序文を手がけている。 |
篆書との出会い
| 北宋代に朱長文によって書かれた書論書『続書断』によれば、彼が篆書を学んだのは、始皇帝が権力誇示のために立てた「始皇七刻石」の一つ「嶧山刻石」(えきさんこくせき)からと言われている。 |
| そこから孔子の「呉季札墓誌」で筆法を磨いたという。 |
| また唐代初期に刻されたという「碧落碑」と呼ばれる小篆の碑を愛好して何日も何度も碑に見入り、とうとう碑のそばに泊まり込んでまで書法を学んだという話もある。 |
| いずれも伝説の域を出ないが、かなり早い時期から篆書に傾倒し、その書法を徹底的に学んだのは確かであろう。 |
改革としての篆書復興
| 中唐の書道界は、「書聖」として神聖視されていた王羲之およびその息子の王献之、いわゆる「二王」の書風を守ろうとする保守派と、それを打ち破ろうとする張旭などの改革派とが対立していた。 |
| 特に改革派では韓愈が六朝時代以来の四六駢儷文を否定して古文復興運動を行い、二王の書を「俗書」と痛罵したのが代表的である。 |
| これを受けて顔真卿が「顔法」と呼ばれる独自の書法を確立したのに対し、李陽冰は二王以前、すなわち篆書や隷書の世界に戻る復古主義的な方向に向かい、秦代以来印と碑の額などに使われる以外はほとんど絶えていた篆書による書や石刻を復活させた。 |
| それも印章用や装飾用にアレンジされた書体ではなく、篆書の古碑や後漢代に編纂された篆書中心の字書『説文解字』を参照に、秦代に制定された本来の姿を踏まえた書法で書いたのである。 |
| これにより李陽冰は篆書による書作をリードする存在となり、秦代の李斯と並ぶ篆書の名家とされて「二李」との称号を奉られたばかりでなく、三皇五帝時代の蒼頡とまで並べて絶讃され「篆虎」と呼ばれることになった。 |
| なお彼は、顔真卿と極めて昵懇の仲であった。 |
| 顔の書いた碑には多く彼が篆額を書いており、顔の代表作である「顔氏家廟碑」の篆額も彼の手になるものである。 |
| また二人がそろって張旭の弟子であったという伝説があることからも、その親交ぶりがうかがえる。 |
後世への影響
| 李陽冰による篆書の復活は、それまで篆書に対し「印章用や装飾用の書体」程度の認識しか持っていなかった書道界に大きな影響を与え、書道に「篆書による書作」という分野が生まれることになった。 |
| また分野の生みの親であるだけでなく、清代に考証学の一部として行われた漢字研究と、それに伴い篆書による書作が広く行われるようになった際、その先駆けとなった鄧石如に多大なる影響を与えている。 |
| その後から篆書に興味を引かれて多くの書家が誕生したことを考えると、その存在は極めて大きいといえる。 |
作品
| 李陽冰は多字数の碑の他、少字数の篆額・銘文も多数ものしたが、その中には失われて伝わらないものも多い。 |
| 現在伝わるものとして代表的なものは、多字数のものとしては大暦2(767)年に刻まれた墓碑「李氏三墳記」、少字数のものとしては大暦7(772)年に現在の福建省省都・福州郊外の磨崖に刻まれた「般若台題記」がある。 |
| 「般若台題記」は24字の少字数のものであるが、当時「四絶」と賞賛された彼の4つの代表作の中で真蹟として唯一残るものである。 |
| またまとまった作品ではないが、江蘇省・恵山の慧山寺にある「聴松」の石刻も彼の作品といわれている。 |
| いずれにせよこれらの作品群は、唐代の篆書による書道の実態を示すものとして貴重なものといえよう。 |
| このほか後漢の許慎による小篆を中心とした字書『説文解字』の校訂も行ったとされるが、散佚して現存しない。 |
参考資料
| 尾上八郎・神田喜一郎・田中親美監修『書道全集』第10巻(平凡社刊)。 |
| 藤原楚水著『図解書道史』第3巻(省心書房刊)。 |
| 二玄社編集部編『唐李陽冰三墳記』(『書跡名品叢刊』第136巻、二玄社刊)。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
張旭
師匠 友達
張旭(ちょうきょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(... |
|
|
李白
中国盛唐の詩人。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩... |
|
|
王献之
中国、東晋の書家。字は子敬。王羲之の第7子。中書令となったことから世に王大令とも呼ばれる。 |
|
|
蒼頡
漢字を発明したとされる古代中国の伝説上の人物。 |
|
|
顔真卿
字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。 |
|
|
王羲之
王羲之(おうぎし、WángXīzhī、303年-361年)は中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現... |
|
|
李斯
中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。楚の... |
|
|
許慎
後漢時代の儒学者・文字学者。最古の部首別漢字字典『説文解字』の作者として知られる。姓は許、名は慎、字は叔重。汝南召陵(現河南省&37118;城県)の人。経... |
|
|
韓愈
中国・中唐を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)、鄧州南陽(今の河南省孟州市)の人であるが、昌黎(河北省)の出身であると自称した。唐宋八... |
|
|
孔子
春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。今日の道徳の確立の始祖。 |
|
|
呉大澂
呉大澂(ごだいちょう、WuDacheng、1835年-1902年)。字は止敬または清卿、号は恒軒。清末の金石学者、書画家。 |
|
|
杜甫
中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。中国文学史上最高... |
|
|
懐素
懐素(かいそ、開元13年(725年)-貞元元年(785年))は中国・唐代の書家、僧。字は蔵真(ぞうしん)、俗姓は銭(せん)、零陵の人で、詩人として有名な銭起... |
|
|
董其昌
中国明代末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とさ... |
|
|
胡亥
秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)。始皇帝の末子であり、長兄に扶蘇がいる。 |
|
|
始皇帝
始皇帝(,シーフアンティ)または秦始皇(,チンシーフアン)と称される。元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上... |
|
|
貫名菘翁
貫名菘翁(ぬきなすうおう、安永7年7月3日(1778年7月26日)-文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。姓は吉井(後に家祖の旧... |
|
|
青山杉雨
書家。愛知県葉栗郡草井村大字村久野(現・江南市)生まれ。本名・文雄。 |
|
|
柳宗元
中国中唐の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本籍地の河東(山西省)から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また、その最後の任地にちなみ「柳柳州」... |
|
|
李陽冰さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|