| プロ初登板は3月2日、阪神甲子園球場での巨人戦(オープン戦)。 |
| 初代ミスタータイガース・藤村富美男の引退試合の日でもあった。 |
| 当初は前日の予定も雨天中止のため月曜日の試合となったにもかかわらず、3万人の観衆を集め行われた。 |
| このとき村山は2回を投げ打者7人と対し、被安打1、無失点に抑えた。 |
| 公式戦初登板は同年4月14日の国鉄スワローズ戦。 |
| 初先発でもあった。 |
| ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客は34人しかいなかったというが、公式記録では3千人。 |
| ちなみに、国鉄の先発は金田正一。 |
| 結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封のデビューであった。 |
| この年18勝10敗、防御率1.19の活躍で、最優秀防御率のタイトルを獲得、新人ながら沢村賞も受賞した。 |
| しかし、新人王のタイトルは新人新記録となる31本塁打を放ち、新人ながら本塁打王のタイトルを獲得した桑田武に譲った。 |
| 新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は現在も村山ひとりだけである。 |
| 新人シーズンの1959年6月25日の天覧試合では小山正明をリリーフし、巨人の長嶋茂雄に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。 |
| 微妙な判定であったため、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言っている |
| 以来、村山vs長嶋のライバル関係ができあがったその後、2011年5月に日本テレビ放送網系で放送された「Going!Sports&News」の特集で、映像を鮮明化する技術を使った検証が行われ、長嶋の打球は左翼ポールの右側に入っていたことが解析から判明されている。 |
| 村山は1500奪三振(1966年6月8日)、2000奪三振(1969年8月1日)をいずれも長嶋から狙って奪っている。 |
| 村山対長嶋の対戦成績は302打数85安打、打率.281、21本塁打、39三振であった。 |
| 長嶋へのこだわりは私生活にも現れ、初めて購入した自宅の電話番号が「3279」、つまり「3(長嶋)に泣く」と読める語呂合わせになっており、強く変更を望んだエピソードがある。 |
| 当時は電話を引くだけでも大変だった時代のためしばらくはやむなくこの電話番号を使っていた。 |
| 長嶋とは現役時代は口も聞かなかったが、引退後意気投合し、お互いに「チョーさん」、「ムラさん」と呼び合う仲になった。 |
| 現役時代、キャッチボール中に隣から飛んできたボールを反射的に右手で払いのけてしまい、右手首を傷める。 |
| この時に手首に負担がかからないフォークボールの投げ方を新たに開発したと述懐している。 |
| 三宅秀史は同じようなケースで目を負傷し、連続試合出場が途切れている。 |
| また、日米野球でも活躍。 |
| 1962年11月17日のデトロイト・タイガース戦(後楽園球場)で8回2死までノーヒット・ノーランに抑える快投を披露。 |
| 終盤に2安打を喫し、快挙は逃したが無四球・9奪三振の完封勝利を収めた。 |
| 日米野球で日本人投手が完封勝利を収めたのは史上初であった。 |
| この試合後、デトロイト・タイガースの監督が村山と握手し、興奮気味に「来年はうちに来ないか?君と契約したい」とまくし立てたが、英語が分からない村山は「サンキュー、サー」としか答えられず、後から何と言われたか通訳に教えられ苦笑したという(文春ビジュアル文庫「魔球伝説」)。 |
| 1967年頃より右腕の血行障害に悩まされ、エースの座を江夏豊に譲る。 |
| 1969年は兼任投手コーチ。 |
| 1970年、選手兼任監督に就任。 |
| 背番号11は阪神の永久欠番となった。 |
| 村山自身、永久欠番の栄誉を終生誇りにしていた。 |
| サインを求められ応じた際は必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えていた。 |
| 阪神・淡路大震災で被災した時、世話になった人たちに腕時計を贈ったが、その時計の裏にも「阪神タイガース11村山実」と刻まれていたという。 |
| 本人は「あんなもの」と言っていたが、贈られた人はいたく感激して大切にしているという。 |
| 通算222勝は大卒の投手としてはチームの大先輩・若林忠志以降、最多勝記録である(阪神の投手勝利数の記録でも若林に次ぐ2位)。 |
| 通算防御率2.09はセリーグ記録でもある。 |