| 未熟児としてうまれ自身のブログにまだ幼い息子の姿を頻繁に掲載している。 |
| 息子は出生の際予定より3ヶ月早く超未熟児で生まれてしまったため、生まれてからしばらく生死をさまよう状態が続き入院生活を送っていた。 |
| 現在は元気に生活をしているが、当時を知る人やファンに見てもらうためと、同じ境遇にあった人に少しでも励みになればいいとの考えから、元気に成長している愛息の姿をブログに掲載しているものである。 |
| 、小学生時代は軟式野球チーム「勢門ベアーズ」に、中学時代は粕屋町のボーイズリーグ「粕屋フェニックス」に所属していた。 |
| 東福岡高校では投手として甲子園に春夏連続出場を果たし、高校日本代表にも投手として選ばれ、アジア最優秀防御率(0.00)を獲得している。 |
| 選抜では横浜高校の松坂大輔と投げ合うが敗れ(143km/hのストレートで速球派と呼ばれていた村田だが、それ以降松坂と比較され技巧派と評されるようになった)、夏は古木克明のいた豊田大谷高校に敗れ初戦敗退。 |
| 本人いわく「投手としては松坂には勝てない」と考え |
| 福岡ソフトバンクホークスに所属していた大野隆治とは高校、大学ともにチームメイトで高校時代はバッテリーを組んでいた(村田が捕手で大野が投手をやっていた時期もある)。 |
| 大学時代は3年秋に井口資仁に並ぶ1シーズン8本塁打を記録し、通算では歴代2位タイの20本塁打を放つなど、東都でも屈指のスラッガーだった。 |
| リーグ通算104試合出場、374打数103安打、打率.275、70打点。 |
| 館山昌平、堤内健、大野隆治とは大学時代のチームメイトで、それぞれ2002年のドラフトで指名され入団。 |
| 「男・村田」を自称している。 |
| 開幕当初は7番に座っていたが打撃が好調だったため多村仁の離脱後は5番を任せられる。 |
| その後4番を務めていた佐伯貴弘の不振により、6月1日の対ソフトバンク戦でプロ入り初の4番に座り、そのままシーズン最後まで4番の座を譲らなかった。 |
| 故障者の多いチームの中で打率.266、34本塁打、114打点と獅子奮迅の活躍を見せた。 |
| しかし両リーグ最多の153三振を喫してしまうなど粗さも目立った。 |
| 日米野球の日本選抜に選ばれ、第4戦(京セラドーム大阪)では全日本の4番に座りタイムリー、第5戦(ヤフードーム)ではジョン・ラッキーからホームランを放つなどまずまずの活躍をみせた。 |
| 12月に開催された北京オリンピックアジア予選を兼ねたアジア野球選手権大会に日本代表として出場した。 |
| この時は背番号「25」を新井貴浩(阪神)に譲り、自らは(昭和の)生年でもある「55」をつけてプレーした。 |
| 帰国後の検査で肉離れは全治6週間と診断され、開幕を二軍で迎えた。 |
| 一軍復帰は5月以降とされていたが、驚異的な回復力を発揮し、開幕から約2週間後の4月15日にはイースタン・リーグの対ロッテ戦に4番DHで出場し実戦復帰を果たす。 |
| 復帰後の第1打席では本塁打も放っている。 |
| その後二軍戦で守備にも就くなどし、4月21日に一軍登録された。 |
| 一軍復帰直後は低調だったが、徐々にペースを上げていき7月28日の阪神戦では通算200本塁打を達成。 |
| 846試合での達成は球団最速である。 |
| 体を締め付けられる感覚が苦手なため、サイズにかなり余裕を持たせた、だぼだぼの大きなユニフォームを好んで着用するが、5月13日の対巨人戦では、9回裏一死満塁の場面で本来ならば体に当たるようなボールではない内角球がだぼだぼのユニフォームをかすり、サヨナラ死球を記録。 |
| ヒーローインタビューで「ユニフォームを大きめに作っておいてよかった」と苦笑した。 |
| その後も4番として活躍していたが、8月7日の中日戦で7回裏の走塁中に左足太もも裏を痛め途中交代。 |
| 翌8日に登録抹消となった。 |
| その後の検査で全治6-8週間の左大腿二頭筋の損傷と診断され、シーズン中の復帰は絶望的と思われたが,またしても驚異的な回復力を発揮し9月21日の阪神戦から4番で復帰した。 |
| 最終的に規定打席には届かなかったものの、25本塁打を記録した。 |