| 後に司馬昭が司馬家の当主となると、その妹婿であった杜預は尚書郎となり、父祖の爵位である豊楽亭侯を襲った。 |
| 尚書郎に在ること四年にして、参相府軍事に転任する。 |
| 263年の蜀攻略の時は、鎮西長史として従軍した。 |
| 鍾会がクーデターを起こしたとき、同僚たちは軒並み罰せられたが、杜預は計画に与しなかったのを証明したため処罰を免れた。 |
| また、鄧艾を尊敬していたため、鄧艾を殺した衛瓘・田続らを厳しく非難している。 |
| 賈充らとともに律令の制定に与り、杜預が注解することとなったとき、杜預は次のように奏上した。 |
| 「法とは、墨縄で筋目をつけるがごとき存在であって、理を窮め性を尽くす類の書ではありません。 |
| ですから、本文は要約され判例は正しく、また省略は許されても単純化は禁ずるのです。 |
| 判例が解りやすく、かつ見やすければ、人々の知るところとなり、罪を犯すのを避けるでしょう。 |
| 単純化されず犯しがたいとすれば、刑罰を執行する回数は減るでしょう。 |
| 刑のもといは簡潔かつ廉直なことにあるのですから、道徳上の立場を明らかにしなければなりません。 |
| 古の刑法は、鍾鼎に銘せられ金石に刻まれ(明文化することで)濫用を防ぎました。 |
| この法を用いる者は、最善の判例とともに裁判の趣旨を明らかにし、墨縄の真直さであらしめなくてはなりません。 |
| 泰始年間(265年-275年)、官吏の貶降と昇進について下問を受けると、次のように述べた。 |
| 「上古聖代であれば、功績は本人が黙っていても広く詳しく伝わったようです。 |
| しかし、今は違います。 |
| 遠方のことについて、詳しく知ることはできません。 |
| 人々は心を疑う代わりに耳目を信じ、耳目を疑う代わりに文書を信じます。 |
| 文書はいよいよ多く、それに従って官による偽造もますます増えます。 |
| 法令は煩雑になり、文章が飾り立てられるばかりです。 |
| 優劣を挙げるとすれば、おのおの監査する官を設けるに越したことはありません。 |
| 毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。 |
| 六年して、もっとも優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。 |
| 優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します。 |
| 」 この上奏を遺憾とした司隷校尉の石鍳は、杜預の職を免じた。 |
| その頃、異民族が隴右に来襲し、杜預は安西軍司として派遣され、長安で秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節を授けられた。 |
| 安西将軍となった石鍳は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。 |
| 杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。 |
| 石鍳は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監のうえ護送されてしまった。 |
| 杜預の処遇について議は長引いたが、杜預夫人が武帝の叔母であることから、爵位で罪を贖うということで決着が付いた。 |
| その後、隴右の情勢は杜預の言葉通りとなり、朝廷では杜預が戦略に明るいと評判になった。 |
| やがて匈奴の劉猛が叛き、并州以西や河東、平陽に威を及ぼすと、杜預は度支尚書に任命されて支援対策に当たった。 |
| 彼は新兵器を開発させる一方、常平倉の設置や穀物の一定買取、塩の定期輸送で農政を安定させ、その上で税制を整えた。 |
| これによって、内外五十余条の地域を救済した。 |
| ところが、石鍳の論功行賞が不誠実であるのを糾弾したことから激しい口論となり、杜預と石鍳の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。 |
| 数年後、杜預は再び度支尚書を拝命した。 |
| この頃の孟津は渡航が難しく、しばしば船舶の転覆事故が起きた。 |
| 杜預は上奏して、富平津へ橋を架けることを請うた。 |
| 朝議では「殷や周の都において、歴代の聖人賢者は橋を作らなかった」との理由で、橋を造る必要はないとした。 |
| しかし、杜預は「『舟を造りて橋と為す』とあるでしょう。 |
| これはつまり、舟橋を作ったということです」と反論し、架橋にこぎつけた。 |
| 橋が完成すると、武帝をはじめ百僚が式典に立会い、武帝は「あなたがいなければ、この橋は建てられなかったな」と称えた。 |
| 杜預は「陛下のご明断がなければ、私は微力も施すことはできませんでした」と答え、帝の面目を保った。 |
| 咸寧四年(278年)秋、長雨と蝗害が起こると、『晋書』食貨志に農要が多く記載されていることを提言している。 |
| このように、杜預の政策は的確で無駄がないことから、朝野は賞賛して「杜武庫」と呼んだ。 |
| 咸寧四年(278年)冬、羊祜に代わって荊州に赴任した杜預は、呉を討伐する旨を上奏して許された。 |
| 翌太康元年、杜預率いる晋軍は大挙して呉を攻め、ついにこれを滅ぼす(#呉征討の過程にて詳述)。 |
| 凱旋後、杜預はその功績によって当陽県侯に昇格し、食邑は9600戸に及んだ。 |
| 杜預は「私の家は、代々、官吏の家です。 |
| 武功は功績になりません」と辞退しようとしたが、許されなかった。 |
| その後も江夏・漢口の経営にあたり、住民に大変慕われて「杜父」と呼ばれ、江南では「後世、杜翁に由って叛くこと無かれ。 |
| 杜預は後世に名を残すことを願っており、常に「高岸を谷と為し、深谷を陵と為さん」と言っていた。 |
| そして、自分の勲績を刻んだ碑を二つ造らせ、一つは万山の下へ沈め、もう一つを峴山の上に立てた。 |
| 一方、大功を立てた身として、気をつけなければならなかった。 |
| 彼がしばしば洛中の貴族要人を饗応するので、人が理由を問うたとき、杜預は「彼らの恨みをかって危害を加えられないためだ」と答えたという。 |
| その後、司隷校尉に任じられたが、63歳で死去した。 |
| 武帝によって、征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、「成」と諡された。 |
| 『晋書』杜預伝は、その人となりを約して「交わりを結び物を接するに、恭にして礼有り。 |