| →執慎将軍〔蜀漢〕。 |
| 前漢の来歙の末裔であり、父の来豔は後漢の霊帝の代に司空にまで昇った。 |
| 『蜀書』''杜周杜許孟来尹李譙郤伝''-来敏伝には、。 |
| 「書物を広く読みあさり、「左氏春秋」をよくし、「三倉」、「広雅」の訓詁学にもっとも詳しく、文字を校正することを好んだ」。 |
| とする記述がある。 |
| また、言葉に節度がなく、何度も免職や格下げにあったとされる。 |
| しかし、来氏は荊州の名族であり、劉禅が太子だった頃からの臣であったため、何度でも復職した。 |
| 『諸葛亮集』には、諸葛亮が来敏を免職させるにあたって記した命令書が載っている。 |
| 内容を整理すると以下のようになる。 |
| 来敏は年を経て老年に至ると、常軌を逸した行動をとるようになった。 |
| 自分より年の若い者が、自分を飛び越えて出世した事に怨み事を並べ、その為に周囲から憎まれる、といった具合である。 |
| 他の論者達は、彼のそうした様を批判していた。 |
| 劉備は彼の振る舞いを不愉快に思っていたが、劉巴が推挙した人物であり、国が興ったばかりであったので堪えていた。 |
| そのような事があり、諸葛亮は彼が道徳を教化してくれると望んで高官に迎えた自身の人事を後悔し、彼を免職に処した。 |
| 出陣の前夜を備えた費禕に対して、彼は別れの挨拶と称して囲碁の対局を羨望し、その胆力を試みたという。 |
| 97歳で亡くなった。 |
| 子の来忠は姜維の参謀として、参軍に任じられた。 |