| プロ入り後は、並み居る投手陣のレベルの高さに自信をなくし、一度は首脳陣に野手転向を申し出たこともあるという。 |
| ところが、に「黒い霧事件」が発生、エースの池永正明ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足となり、一軍の投手としてフル回転せざるを得なくなる。 |
| 投手コーチだった河村英文に才能を見込まれてシュートを習い「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『SportsGraphicNumber』2011年3月24日号、文藝春秋、2011年、雑誌26854・3・24、51頁。 |
| 、加藤初と共に連日350球から400球という投げ込みを課せられた。 |
| なお東尾自身は、黒い霧事件により自分にチャンスが巡って来ると感じ、内心喜んだという。 |
| 後に「自分の野球人生における最大のチャンス到来、ターニングポイントだった」と語っている『江川になれなかった男たち』p.116-117。 |
| 黒い霧事件で戦力が激減した西鉄は1972年に球団経営を放棄、その後太平洋クラブライオンズ〜クラウンライターライオンズとチーム名を変更するなど、常に不安定な経済状況に晒された。 |
| 東尾はその低迷時代をエースとして支えた。 |
| には23勝15敗で最多勝。 |
| オフには読売ジャイアンツから東尾獲得の申し出があったが、球団が「東尾の放出は球団の死を意味し、それは我々が経営の当事者である限りありえない」との声明を発表した。 |
| ライオンズはから西武ライオンズとなる。 |
| 監督の根本陸夫はフロントの要職も兼任、トレードなどにより選手を大幅に入れ替え、西鉄ライオンズ時代からの生き残りは東尾と大田卓司の2人だけになった(東尾と大田は、ともに西鉄ライオンズが西武ライオンズになるまでの全てのライオンズ球団に所属した選手である)。 |
| チームが西武に代わっても、『野武士軍団』と呼ばれた西鉄ライオンズの最後の生き残りらしく、豪放かつ実直な性格でチームの兄貴分として慕われた。 |
| チームは広岡就任1年目の1982年、翌と2年連続リーグ優勝、日本一を達成。 |
| にもリーグ優勝する。 |
| 東尾はこれら3度の日本シリーズではすべてリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝く。 |
| 1983年にはリーグMVPと最優秀防御率を獲得している。 |
| 1985年はタイトルこそ獲得出来なかったが、17勝3敗の好成績で、21勝を上げた阪急ブレーブスの佐藤義則を差し置いてベストナインに選ばれる。 |
| 1986年の日本シリーズ(対広島)は史上初めて8戦目までもつれた激闘であった。 |
| 東尾は第1戦に先発し、9回裏1死まで0点に抑えながら、小早川毅彦、山本浩二に連続ホームランを浴びて同点とされ、引き分ける。 |
| この後、西武は3連敗し広島に王手をかけられる。 |
| 東尾は続く5戦目でも9回を投げ、自責点0のまま降板。 |
| 後を受けた工藤がサヨナラヒットを打って西武はやっと1勝目を挙げる。 |
| 東尾に勝ち星は付かなかったものの、この1勝をきっかけに西武のシリーズ大逆転劇へとつながっていく。 |
| 最終8戦目も東尾が先発登板するが、ピッチャーの金石昭人に2ラン本塁打を打たれて3回で降板。 |
| 試合後「もう握力がなくなっていた」と語っている。 |
| 西武はこの後逆転し日本一となるが、当時37歳の東尾はこのシリーズで0勝ながら3試合、21イニングを投げている。 |
| この3試合は1分け2勝で、東尾が先発した5戦目で西武が1勝目を挙げ、8戦目で西武の優勝が決まったことを考えると、1986年の日本シリーズの運命を左右する存在であったと言える。 |
| また、-->この年のシーズンオフに落合博満と共に日本プロ野球史上初の年俸1億円プレーヤーとなった。 |
| 雨天中止と踏んで登板日前日に同僚の加藤初と深酒したが、当日は快晴。 |
| 田淵幸一らと共に広岡には反抗し、キャンプ中の飲酒を禁じられた時には、若手選手にビールを買いに行かせ、ビールをやかんに入れて冷蔵庫で冷やし、泡が出ないようにして、湯呑に入れてお茶のふりをして、田淵ら何人かで飲んでいたという。 |
| むろん、美味しいわけはないのだが、東尾本人に言わせるとそれが監督への抵抗であり、まずいビールを一緒に飲むことで、選手の間に連帯感が生まれたと語っていた。 |
| しかし、『西武ライオンズ30年史』(ベースボール・マガジン社)のインタビューでは東尾・田淵共に「創成期の西武ライオンズにおいて、広岡という監督は必要不可欠なものだった」とも語っている。 |