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陶淵明
中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝... |
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司馬炎
西晋の初代皇帝。魏から禅譲を受けて晋を建国し、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を... |
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鳩摩羅什
中国六朝時代の訳経僧である。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ば... |
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欧陽詢
唐代の儒家、書家。字は信本。潭州臨湘(現在の湖南省長沙市)に生まれ、安徽で死去した。 |
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乾隆帝
清の第6代皇帝(在位1735年10月8日-1796年2月9日)。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。 |
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孝武帝
孝武帝(こうぶてい)は東晋の第9代皇帝。簡文帝の第6子。372年、父の崩御により12歳で即位した。即位直後は年少であったことから重臣の謝安による補佐を受け... |
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仏図澄
仏図澄(ぶっとちょう、skt:buddhacinga、232年-348年)は中国の神異僧の第一に挙げられる、五胡十六国時代の西域からの渡来僧。姓は帛、亀茲国の出身である... |
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文徴明
文徴明(ぶんちょうめい、男性、成化6年11月6日(1470年)-嘉靖38年2月20日(1559年))は中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、... |
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康熙帝
清の第4代皇帝(在位1661年2月5日-1722年12月20日)。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁... |
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釈道安
五胡十六国時代の僧であり、中国仏教の基礎を築いた大功労者である。本姓は衛氏で、河北省の生まれ。12歳で出家した後、仏図澄の弟子となる。師の没後、五胡... |
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王献之
中国、東晋の書家。字は子敬。王羲之の第7子。中書令となったことから世に王大令とも呼ばれる。 |
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司馬懿
中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てら... |
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鎌田茂雄
仏教学者(文学博士)で、中国仏教史研究に多大な業績がある。僧名は慧忍。 |
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文周王
文周王(ぶんしゅうおう、生年不詳-477年)は百済の第22代の王(在位:475年-477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・... |
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諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建... |
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山尾幸久
山尾幸久(やまおゆきひさ、1935年-)は日本の歴史学者。専門は日本古代史。立命館大学名誉教授。旧満州撫順出身。 |
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始皇帝
始皇帝(,シーフアンティ)または秦始皇(,チンシーフアン)と称される。元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上... |
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王羲之
王羲之(おうぎし、WángXīzhī、303年-361年)は中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現... |
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卑弥呼
『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したと... |
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プロフィール
東晋(とうしん、拼音:Dōngjìn)は、中国の西晋王朝が 劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年-420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。
概要
| 永嘉の乱により洛陽が陥落、懐帝が捕虜となり、西晋は316年(建興4年)に事実上滅亡した。 |
| その際に西晋の琅邪王であった司馬睿は、江南の建業(現在の南京)に逃れ、琅邪の豪族王氏出身の王導の助力を得て317年(建武元年)に東晋を建てた。 |
| 東晋は約100年、11代にわたり、華北から逃れてきた北来の勢力と江南土着の豪族勢力との協力によって続いた。 |
| 当時江南(長江流域)は中原(黄河流域)と比較して人口が希薄な後進地域であり、東晋に先立つ後漢末には華北からの避難民により一時的な人口増加が見られたが、三国時代に社会が安定すると流入者が華北へ帰還したことにより、呉朝の衰退の原因になった。 |
| 東晋はこの経験より、華北からの避難民に対して初年を免税にするなど税制上の優遇措置を設け、積極的に流民を受け入れ、その故郷の県や郡を江南各地で再建する(僑立する)と同時に、開墾奨励の政策を実施した結果、元来温暖な気候と水資源に恵まれた地域であったため、華北に対抗可能な経済力を有するまでに急速に発展した。 |
| 東晋中期には、一時的に華北統一を達成した前秦の苻堅の、公称100万とも112万とも称される大軍の攻撃を受けるが、この戦いでは前秦軍を撃退している(淝水の戦い)。 |
| 後には経済的繁栄と華北の政治的混乱を利用し中原奪回に着手、一時的に桓温が洛陽を、劉裕は長安と洛陽の二大旧都を占領したが、国力の不足と指揮者の政治的事情により、共に占領の恒久化には失敗、中国統一は達成されず、旧都もやがて北方民族の軍により奪回された。 |
| 東晋は都城と国境が近接していることより北方からの攻撃を受けることもあり、政権は不安定なものであった。 |
| 328年(咸和3年)に発生した蘇峻の乱に際しては、後にこれを平定するも、都城が炎上する事態も発生している。 |
| 『晋書』蘇峻伝によれば、反乱に際し百官が捕虜となり、都城は大規模な略奪を受け、士人・宮女らが衣服を剥がされて泣き叫ぶなどの惨状を呈し、「残酷無道」であったと記されている。 |
| その後も大規模な反乱が発生しており、324年(太寧2年)には北来貴族であった王敦の反乱により都城が陥落、399年(隆安3年)には孫恩が朝廷官人をも巻き込んだ孫恩の乱を起こし、江南一帯に被害を与えている。 |
| 朝廷内部では西晋同様に貴族階級が要職を独占し、中でも北来貴族出身である王氏、謝氏、桓氏など有力氏族が大きな勢力となった。 |
| 反面、宗室の司馬氏の求心力は低下し、土着勢力及び西晋の亡命貴族が司馬氏を推戴する形式となっており、皇帝権力は限定的なものであった。 |
| また、魏から帝位簒奪した司馬氏の歴史も皇室権威の低下につながった。 |
| 軍事面では、国防上の必要から都城周辺と荊州北部に二大駐屯地が設置され、王敦と蘇峻の反乱鎮圧に功績を挙げた郗鑒・陶侃がそれぞれの場所に軍団を置き、一方を北府、一方を西府と称していた。 |
| 402年(大亨元年)の五斗米道の反乱鎮圧や、417年(義熙13年)の後秦遠征の成功など経て共に政治的な強い影響力を有するようになり、政権内部での発言力が強まっていった。 |
| 東晋末期、安帝より禅譲され楚朝を立てた西府軍団の領袖・桓玄が劉裕により誅殺されると、北府軍団を掌握する劉裕の勢力が強大となっていった。 |
| 420年(元熙2年)、恭帝より禅譲された劉裕により宋朝が開かれ、東晋は滅亡した。 |
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