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プロフィール
- 東條英機とは
- 概要
- 生い立ちと経歴
- 陸軍入隊
- 関東軍参謀長
- 陸軍次官
- 陸軍大臣
- 首相就任
- 開戦
- 大東亜会議主催
- 三職の兼任
- 退陣
- 重臣
- 敗戦と自殺未遂
- 判決と処刑
- 遺骨と神道での祭祀
- 政治姿勢に対する批判
- 子孫
- 関連サイト
東條英機(とうじょうひでき、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日)-1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、 外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。__TOC__
概要
| 現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日-1944年(昭和19年)7月18日)。 |
| 階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。 |
| 永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。 |
| 日本の対米英開戦時の内閣総理大臣。 |
| また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。 |
| 敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され、1948年11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。 |
| 享年65(満64歳)。 |
生い立ちと経歴
| 東條英機は1884年(明治17年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。 |
| 本籍地は岩手県。 |
| 長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている。 |
| 東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。 |
| 英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。 |
| 俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考え、この反長州閥の考えは英機にも色濃く受け継がれた当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別をうけたと言われることがある。 |
| もっとも八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗という明確な理由があるという。 |
| また、陸軍大将を複数輩出した陸大31期までの首席31名のうち、大将にまで昇進した者は15名に過ぎないことから、首席が大将になれないことは珍しいことではない。 |
| ほぼ同世代の一戸兵衛(弘前藩)、松川敏胤(仙台藩)、柴五郎(会津藩)は大将となっており、この世代(1855-60年生まれ)の大将計12名のうち、東北地方出身者3名を除くと、皇族、長野県、静岡県、福井県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、宮崎県それぞれの出身者が1名ずつであり、出身地によって大将への昇進に差別があった事実は認められない。 |
| 番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校入学、陸軍士官学校卒業(17期生)。 |
陸軍入隊
| 1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。 |
| 1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。 |
| 1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。 |
| 1911年(明治44年)に長男の英隆が誕生。 |
| 1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。 |
| 1915年(大正4年)に陸軍大学校を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。 |
| 近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。 |
| 1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。 |
| 1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。 |
| 1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。 |
| 1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。 |
| 同年に二女・満喜枝が誕生している。 |
| 1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。 |
| 1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。 |
| 1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。 |
| 1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。 |
| 1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。 |
| 同年には三女が誕生。 |
| 1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。 |
| 1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。 |
| 1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。 |
| 1935年(昭和10年)9月21日には、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。 |
| このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止した中西輝政2011「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」『歴史街道』277」。 |
| 1936年(昭和11年)12月1日に陸軍中将に昇進。 |
関東軍参謀長
| 1937年(昭和12年)3月1日、関東軍参謀長に就任する。 |
| 日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。 |
| チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという秦郁彦『現代史の争点』文春文庫254~255頁。 |
陸軍次官
| 1938年(昭和13年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。 |
| 次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局額田課長に無理やり行わせる額田坦回想録23頁。 |
| 同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。 |
| 従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 |
| 板垣大臣の下、多田参謀次長、中島総務部長、飯沼人事局長と対立し、板垣大臣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。 |
| 結果多田次長は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた額田坦回想録79頁。 |
陸軍大臣
| 1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 |
| 近衛日記によると支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。 |
| 後方を向くべからず」だったという。 |
| 1941年(昭和16年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。 |
| 撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。 |
| これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えたという。 |
| これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。 |
| 辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。 |
| 近衛は「戦争には自信がない。 |
| 自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。 |
首相就任
| 木戸幸一内大臣らは、政権を投げ出した近衛文麿首相の後任として、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、天皇を敬愛していた東條を敢えて首相に据えることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により日米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。 |
| 天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。 |
| 木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。 |
| 宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。 |
| 東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。 |
| …優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『木戸幸一日記』、『細川日記』など。 |
| 東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。 |
| それどころか後任の小磯國昭が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。 |
| また東條自身、政治を人気取りと妥協で行うものだとして、「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたとして、自身の意思と反して無理やり首相に据えられたことに同情する意見もある。 |
| 日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、1941年(昭和16年)10月18日に、第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。 |
| 海軍大臣の嶋田繁太郎が海軍大将であったため「首相の自分が中将では…」とそれを気にしたともいわれる。 |
| 第2次近衛内閣、第3次近衛内閣と日米開戦に近づく政策を実行した政権指導者であった近衛文麿近衛文麿自身は後日近衛上奏文において操られて満州事変から戦争拡大の道を進んだという見方を持ったことを書き残している。 |
| 1941年(昭和16年)12月23日に封切られた日本ニュース第81号『鉄石一丸の戦時議会』がそれで、東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。 |
開戦
| 1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。 |
| その後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアメリカ本土、オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。 |
| この時の東條は冷静そのもので、天皇へ報告を真っ先に指示し、米英大使館への処置には、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っているが、8日夜の総理官邸での、食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である。 |
三職の兼任
| 山本五十六戦死直後の1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などから来る様々な弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』27頁と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案であった。 |
| 1944年(昭和19年)2月17日、18日のトラック島の壊滅を知り、東條はついに参謀総長兼任を決意し『東條秘書官機密日誌』128-133頁、2月19日に、木戸内大臣に対し、「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、参謀総長を自分が兼任する」と言い上奏。 |
| 参謀総長を辞めることとなった杉山元は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部~第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした額田坦回想録148頁『杉山メモ(下)』資料解説27頁。 |
| 行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾し、天皇の統帥権に抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。 |
退陣
| そこで絶対国防圏を定め大部隊をもってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の守備を増強したが、1944年6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦の敗北により戦力差は更に拡大し、1944年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕した(但しこれらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権がありサイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。 |
重臣
| 鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言した。 |
敗戦と自殺未遂
| 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 |
| 拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日、読売、毎日の新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった1946年9月16日朝日新聞等。 |
判決と処刑
| 東條は1948年(昭和23年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。 |
遺骨と神道での祭祀
| 東條英機は陸軍に対して、靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出している「陸密第二九五三号靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三○○四号靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの。 |
政治姿勢に対する批判
| 自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)『秘録・石原莞爾』。 |
子孫
| 次男の東條輝雄は、零戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11、航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。 |
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1942年
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