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| 星稜高等学校に入学。 |
| 既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下智茂からの熱烈な勧誘や、中学野球部の監督やコーチに薦められ、また根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。 |
| また、当時は高校卒業後に直接プロ入りするのではなく、慶應義塾大学への進学を希望していた赤木(2002)p113-116。 |
| 投手として入部したが、本人曰く「投手はあまり好きではなかった」ため、すぐに野手(一塁手)に転向イチローとの対談より。 |
| その後、三塁手に転向する。 |
| 星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・サード」で出場してヒットを放った。 |
| 1年生から4番打者を務め、(5番は3年生の村松有人だった)夏の甲子園では3打数0安打でチームは初戦敗退。 |
| ちなみに、この大会には中村紀洋やイチロー(鈴木一朗)も出場したが、いずれも初戦で敗れている。 |
| 秋は北信越大会で松商学園に敗れ、選抜出場を逃す。 |
| この年には、練習試合で愛工大名電と対戦しており、当時2年生のイチローと初めて顔を合わせ、一塁ベース上で言葉を交わしているイチローと松井のテレビ対談より。 |
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| 高校2年夏の甲子園では、初戦(2回戦)沼津市立高戦では松井の走塁で沼津市立高をかき回し接戦に勝利した。 |
| 3回戦の対竜ヶ崎一戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。 |
| 準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。 |
| 夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。 |
| 新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。 |
| 星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという赤木(2002)p138。 |
| 秋の明治神宮大会では優勝した。 |
| また、高校生選抜チームに2年生としては三沢(帝京高)と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした高木大成・大野倫・萩原誠等にその怪物ぶりを賞賛されている。 |
| 大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。 |
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| 高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、松井は開幕試合である初戦の対宮古戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。 |
| 2回戦で堀越のエース山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある赤木(2002)p147。 |
| しかし、準々決勝の対天理戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。 |
| 夏の甲子園は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。 |
| この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。 |
| 明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、『(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。 |
| 』とコメントしている。 |
| 高校通算打率は.450、本塁打は60本(ホームランボールは60個全部は揃っていないという)。 |
| 高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。 |
| ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。 |
| ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。 |
| 9月には韓国・ソウルで行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した朝日新聞,「選手18人決まる日米韓3国親善高校野球大会」,1992年8月26日朝刊。 |
| 松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたトリー・ハンターは、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。 |
| 当時ボクは16歳でマツイは17歳。 |
| その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。 |
| それがマツイだったんだよ」と語っている鉄矢多美子, |
| ドラフトの目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。 |
| 「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた朝日新聞,「地元報道陣が「協定」星稜・松井選手、きょうドラフト」,1992年11月21日朝刊。 |
| 11月21日のドラフト会議で巨人、阪神、中日、ダイエーの4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。 |
| 契約金は1億2,000万円。 |
| 年俸は720万円。 |
| 松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄。 |
| 当時の松井は阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。 |
| まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った朝日新聞大阪版,「阪神熱望」の松井は複雑92年のプロ野球ドラフト」,1992年11月21日夕刊 |
| その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。 |
| 阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。 |
| これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという児玉光雄著『松井秀喜に学ぶ壁をブチ破る「心の持ち方」』東邦出版。 |
| なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。 |
| 星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下監督は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。 |
| 野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。 |
| 野球部の活動以外での欠席は1日もなかった。 |
| 星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、同高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」を贈られた朝日新聞,「ジャイアンツの松井選手が高校卒業」,1993年3月8日夕刊。 |