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プロフィール
- 松岡洋右とは
- アメリカ留学
- 外務省時代
- 満鉄から代議士へ
- ジュネーブ総会派遣
- 議員辞職・再び満鉄へ
- 外務大臣就任
- 三国同盟・日ソ中立条約
- 日米交渉
- 外相離任後
- A級戦犯容疑者
- 逸話
- 家族・親族
- 関連サイト
松岡洋右(まつおかようすけ、3月4日-6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは 外務大臣として関与した。敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死。
アメリカ留学
| 洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどからに留学のため渡米する。 |
| アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け、入信に至る。 |
| 特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(MerrimanColbertHarris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼(記録では1893年とある)を受けた。 |
| 彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。 |
| 後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と述べ、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。 |
| オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、に卒業する。 |
| オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。 |
| 卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる三輪(1989)、p.33。 |
| が、母親の健康状態悪化などを理由に、9年振りに帰国する。 |
外務省時代
| 帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした豊田(2003)上巻p.68、『松岡洋右その人と生涯』pp.49-50。 |
| に外交官試験に首席で合格し、外務省に入省する。 |
| なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある三輪(1989)、p.42-44。 |
| 外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。 |
| その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。 |
| 松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。 |
| 短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。 |
| からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。 |
| 帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、、外務省を41歳の若さで退官。 |
満鉄から代議士へ
| 退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、には副総裁となる(総裁は山本)。 |
| 満鉄が単なる鉄道会社から、「満州経営」の国策会社へと脱皮しつつあった重要な時期であり満鉄は設立当初から「単なる鉄道会社」ではなく日本の「満州経営」の中心としての国策会社であり、松岡が副総裁であった時期に国策会社となったわけではない。 |
| 詳細は南満州鉄道を参照のこと-->松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。 |
ジュネーブ総会派遣
| このような中の10月、松岡は同総会に日本首席全権として派遣。 |
| その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。 |
| 「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省の最後の方針であり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いた訳ではなく、松岡全権はあくまでも脱退を極力避ける方針で望んだ。 |
| 日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。 |
| それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。 |
| しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。 |
| もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。 |
| 仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。 |
| なお、聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのはヨーロッパの中小国であった(スペイン、スイス、チェコ、インドネシアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダ)。 |
| 松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の滿洲視察」という滿鉄弘報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。 |
| 併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満洲開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。 |
| 当時の文藝春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。 |
| 日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。 |
| 2月24日、軍縮分館で行われた総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。 |
| 松岡は予め用意の宣言書を朗読して退場した。 |
| この際、松岡が日本語で「さよなら!」と叫んで議場を退場したといわれることもあるが、これは注昭和8年5月28日大日本雄弁会講談社発行の『松岡全権大演説集』では総会退場の日には「さよなら」は発言していない。 |
| 「サヨナラ」演説は昭和8年4月12日サンフランシスコにて放送された全米向けNBCラジオ演説が「SAYONARASPEECH」として記載され、この演説の場合は「Isayittoyou─SAYONARA」とラストを締め括っているの事実との混同によって発生した誤りである。 |
| 松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。 |
| 翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。 |
| 「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。 |
| 42対1は当時流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは1番なんだ。 |
| 」等と一部で評された。 |
| その後、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。 |
| ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭遇し、松岡は「日本は賊の国だ」と罵られた。 |
議員辞職・再び満鉄へ
| 帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。 |
| 言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。 |
| もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。 |
| 国民に陳謝する」との意のコメントを出している。 |
| 帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。 |
| それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。 |
| このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。 |
| 特にみるべき政治活動もないまま8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。 |
| 38年3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力して5000人を超えるユダヤ人難民を保護している。 |
外務大臣就任
| 20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。 |
| 更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。 |
三国同盟・日ソ中立条約
| 松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団(ユーラシア枢軸構想・四国連合構想)を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。 |
| こうして松岡は日独伊三国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。 |
| 日独伊三国軍事同盟は3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。 |
| 帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。 |
| シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。 |
| この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。 |
| 日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とMI6情報部から仕入れた情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。 |
| これは後年、東京裁判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。 |
日米交渉
| 駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。 |
| 同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。 |
| なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のための叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。 |
| 自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかったとの評がある。 |
| しかし6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解することになる。 |
| 独ソ開戦については、ドイツ訪問時にリッベントロップ外相から独ソ関係は今後どうなるか分からず、独ソ衝突などありえないなどと日本政府には伝えないようにと言われ、ヒトラーも独ソ国境に150個師団を展開したことを明かすなど、それとなくドイツ側が独ソ戦について、におわす発言をしたのにも関わらず、松岡はこれらのことを閣議で報告しなかったばかりか、独ソ開戦について否定する発言を繰り返していた。 |
| 松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」をアメリカに提案する。 |
| 近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。 |
外相離任後
| しかし、開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、それによると松岡は緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と記している。 |
| また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。 |
| その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。 |
| 1945年、友人である吉田茂から和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。 |
A級戦犯容疑者
| 敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。 |
| しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。 |
逸話
| 山田風太郎は自著『人間臨終図鑑』の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。 |
| 細川護貞によれば、外務大臣時、松岡は大変な話し好きであり、朝から晩まで喋っていたということである。 |
| 話が途中でも、時間がくれば一時間なら一時間で話し相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという(伊藤隆編『語りつぐ昭和史』第二巻)。 |
| 松岡の饒舌は、アメリカ留学時より愛好していたコカイン中毒による覚醒症状によるものとする説もある。 |
| 瀧澤一郎は、雑誌『治安フォーラム』平成18年2月号で、松岡が、クレムリン宮殿で開催された日ソ中立条約成立の祝賀会の座上、ウォッカに酔い、お世辞を込めて「私は共産主義者だ」と語ったとされる逸話を紹介している。 |
| 彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。 |
| 1978年に靖国神社がA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある(詳細は富田メモを参照)。 |
| 満州事変以降よく使われたスローガンである「満蒙は日本の生命線」という標語は、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった濱口内閣の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説で利用したのが最初。 |
| 在カウナス日本領事代理、杉原千畝が行ったユダヤ人向け通過ビザ発給に対して、松岡はビザ発給を拒否したが、実は「黙認」していたのではないか、との説があるが、真相は未だ不明である。 |
| ただし、満鉄総裁時代のオトポール事件ではユダヤ人難民救援用の列車を出動させるなど積極的に動いており、ナチスの不興を買っている。 |
| また、1940年12月31日には、在日ユダヤ人の実業家らとの会合の中で、「人間ヒトラーとの提携が、ただちに日本で反ユダヤ政策を実施するということでは無い」と約束している。 |
| アメリカ留学時にキリスト教に関心を持ち、プロテスタントの信者となったクリスチャンである。 |
| しかし、戦後に肺結核を発病したまま収監された際、主治医の井上泰代(ベタニア修道女会所属の女医)の影響でカトリックへの関心を強めてカトリックへの改宗を決意し、臨終のわずか数時間前、井上医師の手によって洗礼を受けた。 |
| 長男の謙一郎は、父親の超国家主義的な思想を嫌い、秘かにアナーキズムにシンパシーを感じていたという。 |
家族・親族
| 妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する)-佐藤松介は佐藤栄作元首相、岸信介元首相の叔父にあたる。 |
| 長男:謙一郎(実業家・元日本教育テレビ副社長)-山口淑子の恋人。 |
| 甥:松岡三雄(政治家・元山口県光市長)-三雄の長男は元参議院議員(自民党、無所属の会、民主党)、元衆議院議員(日本新党)、元光市長の松岡満寿男である。 |
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日本政府は、リットン報告書が採択された場合... |
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