| 政治力に優れていたことから、江戸時代後期の名君の一人として高く評価されている。 |
| また、学問を好み、著書に『花月草紙』、『宇下人言(うげのひとこと)』、『集古十種』等100以上を残す。 |
| また、頼山陽をはじめ多くの学者との交流を持った。 |
| 白河藩に日本初の公園(南湖公園)を造るなどの文化人だった。 |
| 詩歌もよくし、「''心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞ迷ふたそがれの宿''」(一説に「''心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞわぶるたそがれの宿''」とも)から、たそがれの少将とも呼ばれた。 |
| 『宇下人言』は定信の字をいじって付けた名前として知られている(定⇒宇下、信⇒人言)。 |
| この『宇下人言』の中で定信は、自分は幼少の頃は短気だったが、師として付けられた大塚孝綽・黒沢雉岡、近習だった水野為長の3名の指導によって性格が改まったとしている。 |
| 大塚孝綽は田安家は徳川将軍家の藩屏として朱子学を奉じるべきであると主張しており、定信が古文辞学や古学に通じながらも寛政異学の禁を出した背景には自己の学問と老中としての政治的立場を分けて考える定信の学問観があったと考えられる。 |
| 儒学を尊重するあまり、自らの欲望をも極端に抑えた。 |
| 「房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と『宇下人言』に記している。 |
| 一度手をつけた女性を屋敷から召し放つ前に、寝所を共にして嫁ぐための心得などを教え諭したこともある。 |
| これは定信が情欲に耐えられるかという修行の目的で行ったことで、「いささかも凡情(欲望)起こらず」と記している。 |
| 父・宗武は国学を保護した事で知られているが、定信は逆に『花月草紙』において本居宣長の「もののあはれ」を批判するなど、冷淡な態度を取っていた。 |
| これは、宗武に保護されていた荷田在満が門外不出とされた大嘗会の記録を刊行した『大嘗会便蒙』事件によって、田安家の責任問題に発展した経緯から師の大塚孝綽ともに国学に対する反感を抱いていたからと言われている。 |
| 後年、定信も国学者を求めて人づてに宣長にも紹介を求めているが、あくまでも古典研究のための人材募集であり、宣長の推挙した人物を結果的には断っている。 |
| なお、本居宣長の方は寛政の改革に強く期待して著書の『玉くしげ』を定信に献上するなど、自己の考え方が政治に生かされる事を願ったが、失敗に終わる事となった。 |
| 当時、職人に作らせた白河だるまは白河市の特産物で今でも毎年2月11日には「白河だるま市」という祭りで売られている。 |
| 白河そばを特産物としたのもこの人物である。 |
| 飢饉の時には藩の者を誰一人餓死させなかったという。 |
| 民話も多々あり、今でも白河市の人々の心に生きている。 |
| 大名ながら、起倒流柔術の鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3,000人といわれる鈴木の弟子のうち最も優れた3人のうちの一人が定信だったと伝わる。 |
| 自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。 |
| 隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した。 |
| なお、定信が柔術を志した背景には自身が病気がちで自己の鍛錬に努めた事にあったという。 |
| 藩祖・松平定綱が家臣とともに編み出したと伝わる甲乙流剣術がすたれていたが、これを復興し、自らが工夫した柔術を加え、甲乙流を剣・柔の2術からなる内容に改めた(それ以前の甲乙流と区別するため、定信が改変した以降のものは「新甲乙流」と呼ぶ場合もある)。 |
| 砲術についても、三木流、荻野流、中島流、渡部流の皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開いたが、その後、さらに多くの砲術流派を研究し、文化年間に御家流を開いた。 |
| 尊号一件の際、将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。 |
| しかし御側御用取次・平岡頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという出典:『続徳川実紀』-文恭院殿御実紀。 |
| 当時、学問・教養にあまり関心がなかった幕臣たちの態度に定信は落胆し、幕臣たちに学問を奨励するために試験を考えたという。 |
| 受験資格は、主に幕臣や地役人などに限定し、昌平坂学問所で試験(学問吟味)を行った。 |
| 近藤重蔵はこの試験で好成績だったため、定信に登用され、後に寛政10年(1798年)、蝦夷地調査隊のメンバーに加わった。 |
| 作家の井沢元彦は『逆説の日本史』中で、朱子学を妄信してその理念の実現を第一とした(寛政異学の禁はその典型)宗教人であり、田沼意次がそれに反する政策(=商業重視)を行ったために彼を異常に憎み、利害を度外視して田沼の行った事を全否定してしまった、外国を「夷」としか見る事ができず、蘭学を禁止し、幕府が薩長に遅れを取る原因を作った、などと述べている。 |