| 同期には、同じ京都所属の山森雅晶(2008年下期A級3班)がいるが、彼の在校成績は6位であり、デビュー時に注目されたのは山森の方だった。 |
| 松本は、その山森に対しライバル心をむき出しにして、逸早く結果を出した。 |
| 1980年4月19日、デビュー戦の門司競輪において初出走初勝利。 |
| その翌日、翌々日も1着を取り、初日~最終日まで全て1着という完全優勝を果たす。 |
| 同年中にA級(当時はA・Bの2クラス制)に昇格、当時の最高クラスであるA級1班(現在でいうS級1班)には3年でたどり着く。 |
| ;中野浩一との出会い。 |
| 着実に力をつけ、近畿地区ではトップクラスに上り詰めたものの、中々特別競輪(現在のGI)決勝戦には程遠かった。 |
| 1984年、オールスター競輪準決勝4着。 |
| 同年の競輪祭でも準決勝は写真判定の末4着。 |
| この時、いずれも3着で立ちはだかったのが、中野浩一であった。 |
| どうしても中野を超えられない。 |
| そんな中野はどのような練習をしているのか。 |
| 松本は飽くなき探究心で、更なるトップクラスを目指すために、先輩の紹介で自ら中野浩一の元に赴き、何とか練習に参加させてもらうようになり、それまで以上に実力を積み上げていくことになる。 |
| 松本が中野と初めて練習を共にしたのが1985年。 |
| 中野は当時、特別競輪の前には必ず日本競輪学校で合宿を張っていた。 |
| そこには松本と同じように、中野に憧れた多数の若手選手が集まっており、さしずめ梁山泊のような世界であった。 |
| そんな中野との合同練習は何もかもが新鮮であった。 |
| そこでの中野は専門のトレーナーを帯同させ、当時としては珍しい科学的トレーニングを実践していた。 |
| そんな中野に衝撃を受けた松本は、中野の全てを盗んでやろうと、合宿中は練習以外にもゴルフ、麻雀とあらゆるところについて行った。 |
| でも松本は、それでも練習中の中野さんの集中力には誰も敵わなかった、と振り返っている。 |
| 中野と合同練習をすることによって、それまで特別競輪どころか開設記念競輪(現在のGIII)でさえ優勝経験のなかった松本にとって、様々なことを気付かせてくれた。 |
| その練習を通じて、今までの自分はぬるま湯に浸かっていたようなものだ、本気で頂点を目指そう、という気持ちにさせてくれたのだった。 |
| ;夫人との出会い。 |
| 中野との合同練習は、着実に成果を見せるようになる。 |
| 1987年、地元の京都向日町競輪で開催された特別競輪全日本選抜競輪では、初日特選で中野を差し切り勝利する。 |
| そしてそのまま勝ち上がり、自身初の特別競輪決勝戦に駒を進めたのだった。 |
| だが、初日から4日間続けて決勝戦でも中野をマークしてレースに臨んだものの、レース中は滝沢正光の逃げを本田晴美が捲れず落車、松本もその煽りを受けて落車してしまう。 |
| しかし、中野は落車を避けて3着に入るという離れ業を見せたのだった。 |
| この時松本は、まだまだ自分は甘い、と感じていた。 |
| 中野が行った特別競輪前の合同練習には、毎回欠かさず参加した。 |
| その練習で得たものは非常に大きかったが、競輪以外でも得たものは大きかった。 |
| それが、由美子夫人との出会いである。 |
| 夫人は中野が練習の合間によく通った料理屋旅館の娘で、1989年、競輪学校近くのゴルフ場にて出会う。 |
| この時、松本は30歳、由美子夫人は21歳だった。 |
| しかし、すぐに意気投合、翌1990年にゴールインを果たす。 |
| 母を亡くしてから孤独だった松本は、後に夫人と二人三脚で頂点を目指すようになる。 |
| 松本自身、現役時代は競輪場に向かうため自宅を出る際、夫人には常に「このまま帰ってこないかもしれないから覚悟しておけ」と言い聞かせていたように、常に「死」を覚悟していた。 |
| 後の松本の目覚しい活躍は、夫人の理解と協力がなければ成し得ないものであった。 |
| 1988年5月、平塚競輪場で、初の開設記念を制覇。 |
| だが、1992年のオールスター競輪(名古屋競輪場)で、そのチャンスが巡ってくる。 |
| 9月28日、最終日決勝戦。 |
| 松本はレースで「最も弱い」と見做される6番車で、伏兵の立場であった。 |
| このレース、吉岡稔真-井上茂徳-平田崇昭の九州ラインに、鈴木誠-尾崎雅彦の南関東ライン、高木隆弘-俵信之の即席ラインが立ちはだかる。 |
| 松本は何度も連携している海田和裕と中近ラインを組んだ。 |
| レースは打鐘から海田が先行、松本はそれにしっかり付いて行った。 |
| 松本は海田の後方からそのまま抜け出し2位入線だったものの、井上の失格により繰り上がりという思わぬ形で初の特別競輪優勝を手にすることとなった。 |
| 翌日の新聞各紙には「棚ぼた」などと松本にとっては有り難くない見出しが舞ったが、それでも松本にとっては漸くタイトルが取れた、という感激が上回った。 |
| これをきっかけとして一流選手の仲間入りを果たし、1996年から1997年にかけてはふるさとダービーにおいて出場4開催連続優勝という偉業を成し遂げている。 |
| 1996年、自費でスポーツジム(クラブコング)を立ち上げる。 |
| 以降も肉体の維持に全力を注ぎ、それまでの競輪の常識では下降線となる40歳を越えても第一線での活躍を続けたことから、いつしか「中年の星」とまで呼ばれるようになった。 |
| 年齢を重ねても常に近畿のトップスターとして君臨し、「近畿と言えば松本整」とまで言われる存在にまでなったものの、なかなか2つ目のGIタイトルを獲得することができなかった。 |
| だが、2002年7月、寛仁親王牌で、そのチャンスが訪れる。 |
| 7月28日に行われた決勝戦では、松本が弟子のように可愛がってきた練習仲間の村上義弘の番手であり、また松本の後方には同じく京都の伊藤保文がマークと、絶好のポジションを得た。 |
| レースは、打鐘から村上が先行、松本はそのまま抜け出し1着でゴール。 |
| 表彰式でも、これまでの苦労が走馬灯のようによみがえり、涙が止まらなかった。 |
| 40歳を超えてなお競輪の第一線で活躍する凄さにフジテレビの情報ライブEZ!TVやテレビ朝日のニュースステーションなどで特集が組まれた。 |
| この他、同年8月には順天堂大学スポーツ健康科学部に研究生として入学し、自身の体を研究テーマにしたことでも話題となった。 |
| この年(2002年)を含めてKEIRINグランプリには5度出場しているが、いずれも成績は芳しくなく、1996年は十文字貴信を落車させたとして失格と判定され(これについても色々と物議を醸したが)、2002年は同郷の強力先行選手である村上義弘の後位という絶好のポジションを得ながら、ラインが組めなかった小橋正義に競り込まれ番手を奪われるという屈辱を味わった。 |
| この頃から他の追込選手からの競り込みに対し危険行為(頭突き・肘かけ・膝蹴り等)を繰返し2003年には失格を多発させ、これにより長期の斡旋停止や、大幅減点された影響で2004年7月から下位クラスのA級へ陥落が決まっただけでなく、日本競輪選手会(以下選手会)からもレースへの参加自粛要請が伝えられたため、松本が「二重制裁」と選手会に対し猛反発した。 |
| その後も2004年1月の競輪祭などに強行出場したが、選手会から除名(事実上の強制引退)の意向を伝えられたため、やむなく松本は選手会の処分に従うことになった。 |
| その後2ヶ月間の参加自粛のち、直後に出場した2004年6月の高松宮記念杯競輪では優勝を果たし、自身3度目の最高齢記録更新を果たした。 |
| 記者会見中、この発表を聞いた多くの記者が驚愕の声を発し、日刊スポーツ(大阪版)では翌日の一面に見出しだけだが掲載される(詳細な記事は競輪面に掲載)など多方面で反響を呼んだ。 |
| 中野浩一でさえ、高松宮記念杯競輪の開催直前に聞かされた程度であった。 |