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つながりの強いひと
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山田方谷
幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。 |
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松平容保
江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩9代目藩主であり、また最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主徳川治保の子孫である。京都守護職。美濃国高須藩主・松平義... |
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徳川慶喜
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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井伊直弼
幕末の大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の... |
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松平春嶽
幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主。春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通し... |
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松平定永
江戸時代の大名。陸奥白河藩第4代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。定綱系久松松平家10代。松平定信の長男として生まれ、父の隠居に伴い家督を相続。溜間詰。文政6... |
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榎本武揚
江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。 |
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徳川家茂
江戸幕府第14代征夷大将軍である。実父は第12代将軍徳川家慶の実弟であり、第13代将軍家定の従兄弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。初... |
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河井継之助
河井継之助(かわいつぐのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日)-慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣であ... |
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板倉勝弼
備中松山藩(高梁藩)の第8代(最後)の藩主、子爵。板倉家宗家14代。第4代藩主板倉勝政の十一男・板倉勝喬の四男。母は石田氏。正室は太田資功の娘。側室に... |
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大久保一翁
日本の武士(幕臣)・政治家。東京府知事・元老院議官・子爵。 |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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松平定敬
幕末の桑名藩第4代藩主(藩主在任:安政6年(1859年)-慶応4年(1868年)。京都所司代。定綱系久松松平家13代。官位は従四位上左近衛権中将(明治維新後に従... |
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山内容堂
日本の武士・外様大名・土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1849年1月21日)-安政6年(1859年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従... |
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寺社奉行
荒川秀俊「寺社奉行月番表(研究余禄)」(『日本歴史』通号303号:1973年8月号所載)日本歴史学会編 1973年8月・吉川弘文館発行 小川文子「寺社奉行考」(『... |
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久保忠
弊社では現在お取り扱いができません お困りの方 久保 忠著 税込価格: (本体 : ) 出版:丸善 サイズ ISBN 発行年月 利用対象 出荷可能時間 19... |
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板倉勝重
安土桃山時代から江戸時代の大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。板倉好重の次男。母は本多光次の娘。子に板倉重宗、板倉重昌ら。史料では官位を... |
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小笠原長行
江戸時代後期の江戸幕府の老中、外国事務総裁。肥前国唐津藩小笠原家初代・小笠原長昌の長男。唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。 |
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板倉勝政
備中松山藩の弟4代藩主。板倉家宗家10代。 |
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板倉勝職
備中松山藩の第6代藩主。板倉家宗家12代。第5代藩主・板倉勝晙の長男。正室は戸田氏庸の娘。継室は津軽寧親の娘。継々室は黒田直方の娘(本多正意の養女)。... |
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プロフィール
板倉 勝静(いたくらかつきよ)は、江戸幕府の奏者番・ 寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。
生涯
| 文政6年(1823年)1月4日、陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)・松平定永(松平定信の嫡男)の八男として生まれる。 |
| 備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の婿養子となり、嘉永2年(1849年)閏4月6日に養父が隠居したため、家督を継いで第7代藩主となった。 |
| 農商出身の陽明学者・山田方谷を抜擢して藩政改革を行って成功を収める。 |
| それが評価されて寺社奉行を務めたが、安政の大獄で井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して直弼の怒りを買い、罷免させられた。 |
| 直弼死後の文久元年(1861年)、寺社奉行に復帰、翌年には老中に昇格し、幕末の混乱する政局の安定化に努めた。 |
| 生麦事件の賠償問題などから一時、老中職を罷免させられたこともあるが、程なくして老中として再任された。 |
| 15代将軍・徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任される。 |
| そして幕政改革に取り組む一方で、大政奉還の実現にも尽力した。 |
| その後、戊辰戦争が起きると同じく老中であった小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となって新政府軍と五稜郭まで戦った。 |
| 勝静が一番の信を置いた山田方谷は、黒船来航後の混乱を見て、既に幕府の滅亡が避けられないことを察し、勝静にはまず松山の領民のことを考えて欲しいと諫言する。 |
| だが松平定信の孫(8代将軍徳川吉宗から数えれば玄孫にあたる)に生まれた勝静にとって幕府(徳川家)を見捨てることは出来ない相談であった。 |
| 勝静が東北地方の幕府軍に参戦しているとの報を得た新政府は、近隣の岡山藩などに対して松山への攻撃を命じた。 |
| 留守を守っていた方谷は松山の領民を戦いから救うために松山城を明け渡し、勝静を隠居させる決断をしたのである(それと同時に方谷も公的生活からは引退し、新政府の度重なる出仕要請を受けることなく亡くなった)。 |
| 方谷の指示を受けた松山藩士が知人のプロイセン商船の船長とともに箱館に向かい、勝静を半ば強引に江戸に連行して、新政府への降伏を迫った。 |
| 勝静は既に方谷が養子・板倉勝弼を新藩主に迎えて城を明け渡したことを知ると、やむなく降伏した。 |
| だが赦免後に方谷と勝弼を慰労して、勝弼が自分や藩士たちに遠慮して家督を長男の勝全(父とともに新政府によって分家筋の安中藩に幽閉されていた)に譲ることのないように指示している。 |
| 晩年は明治9年(1876年)に上野東照宮の祀官となった。 |
| また、勝弼や三島中洲・川田甕江(いずれも方谷の弟子)の協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立を行っている。 |
| 明治22年(1889年)4月6日に死去。 |
人物
| 生前に勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。 |
| 巡り会わせが不幸だったとしか言いようが無い」と語っている。 |
| 幕末の幕臣としては、最後まで忠誠を尽くした忠臣と言えよう。 |
| 旧主・慶喜が赦免後に幕府のために命を捧げた家臣たちのことも考えずに悠々自適の生活を送っていると知ると、激怒してあのような主君に仕えた自分が誤っていたと語ったという。 |
年譜
| 安政4年(1857年)8月11日奏者番兼寺社奉行。 |
| 安政6年(1859年)2月2日安政大獄により寺社奉行免職。 |
| 万延2年(1861年)2月1日寺社奉行に再任。 |
| 文久2年(1862年)3月15日寺社奉行から老中に昇格。 |
| 元治元年(1864年)6月18日老中免職。 |
| 慶応元年(1865年)10月22日老中再任。 |
| 慶応4年(1868年)1月29日老中免職。 |
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1823年
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陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)・松平定永(松... |
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1861年
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寺社奉行に復帰、翌年には老中に昇格し、幕末... |
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