| 武蔵川部屋の元大関出島(1場所遅れで初土俵、現・年寄大鳴戸)とは学生時代のライバル。 |
| 十両時代は紫の締め込みを使用し、さがりが異様に短かった。 |
| 化粧廻しには、土佐犬が綱を締めている姿が描かれていた。 |
| 全盛時は体重が170キロ台前半で、部屋の大先輩である横綱北の湖とほぼ同じ体型であった。 |
| 立ち合いは仕切り線の極めて近くから立つ。 |
| 普段は眼鏡を掛けている。 |
| 2003年7月場所4日目(2003年7月15日)、北桜戦。 |
| 2001年から追加された新しい勝負結果のひとつ、つきひざ |
| この際、師匠の三保ヶ関は「今日は顔を合わさないように、逃げます。 |
| テレビで放送するなら、顔にモザイク入れてください」とのコメントを残したモザイクの対象は三保ヶ関自身であり、増健ではない。 |
| 増健本人のコメントは「あっと思ったら、相手がいなかった。 |
| 何しに来たんかなぁ」である朝日新聞 2003年7月10日朝刊17面。 |
| また、同場所では垣添が11勝4敗で十両優勝したが、増健は10勝5敗(十両での自己最高成績)の優勝次点であった。 |
| 2004年1月場所。 |
| 前の11月場所は東十両9枚目で6勝9敗と負け越したが、翌1月場所は関取定員増の恩恵を受け、名目上は同じ地位に据え置かれた(実質は1枚番付を下げている)。 |
| この例のように、十両での番付運はよかった。 |
| 2004年1月場所12日目(2004年1月22日)、濱錦戦。 |
| 日大の後輩である濱錦に叩き込みで勝った取組が無気力相撲であったとして、日本相撲協会の九重審判部副部長と伊勢ノ海監察委員長から、濱錦とともに厳重注意を受けた。 |
| (なお、この取組があった日は、増健の30歳の誕生日であった)。 |
| 2006年5月場所14日目(2006年5月20日)、琴冠佑戦。 |
| 幕下で琴冠佑と対戦し、熱戦の末土俵際で琴冠佑を寄り倒したかに思われ、軍配は柳川に上がった。 |
| しかし、物言いが付いて協議の結果、「柳川の足が先に土俵を割っていた」として、行司差し違えで、勇み足で敗れた。 |
| 柳川が勇み足で敗れたのは1997年1月場所9日目の福薗戦以来3度目。 |
| 複数種の非技で敗れた経験を持つ力士は珍しい。 |
| 2006年7月場所後、三保ヶ関部屋の部屋付き親方であり、師匠から後継指名を受けていたため独立の可能性は低いと見られていた尾上が幕内把瑠都らを連れて尾上部屋を興したため、2006年9月場所では久々の部屋頭復帰を果たした。 |
| 2007年11月場所。 |
| 東幕下19枚目で、自己ワーストとなる一番相撲からの6連敗を喫する。 |
| 7番相撲で朝道龍との全敗対決を制し、かろうじて7戦全敗は免れたものの、著しい力の衰えを感じさせた。 |
| 2008年11月場所10日目(2008年11月18日)、星風戦。 |
| 2勝2敗同士の5番相撲で対戦し、下手投げで星風に敗れたが、この際NHKのテレビ放送にて「星風が2勝3敗としています、柳川は1勝4敗の今場所負け越しです」と誤報され、訂正されることなく放送が終了した(正しくは星風が3勝2敗、柳川が2勝3敗である)。 |
| ちなみに、その後柳川は7番相撲で実際に負け越した。 |
| 2009年3月場所。 |
| 1996年5月場所以来、約13年ぶりの幕下50枚目台という低い地位(東幕下54枚目)に置かれ、負け越せば自身初となる三段目陥落の危機であったが、5勝2敗の幕下優勝次点という好成績を挙げ、未だ幕下の地位を守るだけの力が残っていることを証明した。 |
| 2009年5月場所。 |
| 1番相撲から5連勝。 |
| 6番相撲では同体取り直しの末、惜しくも新鋭の舛ノ山に敗れたが、前場所の5番相撲から通算で8連勝を達成し、35歳にして従来の自己記録であった7連勝(1997年11月場所3番相撲~1998年1月場所2番相撲、2000年7月場所4番相撲~9月場所3番相撲)を更新した。 |
| 1996年1月場所に幕下60枚目格付け出しで初土俵を踏んで以来、引退まで丸15年間以上、幕下~十両の地位を保っていた(三段目以下および幕内在位経験が無い)。 |
| この記録は、強すぎずかつ弱すぎず、中途半端な実力を維持できないと達成しえないものである。 |
| 通算在位91場所は昭和33年以降の未入幕幕下付出力士の最多記録。 |
| 2009年11月場所で最高位が十両以下の幕下付出力士として初めて力士褒賞金が幕内力士の最低支給標準額である60円に到達した。 |