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プロフィール
- 柳生宗矩とは
- 誕生から徳川家仕官
- 柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣
- 坂崎事件
- 家光の下での躍進から大名へ
- 晩年
- 評価
- 宗矩の言葉
- 宗矩の門下
- 史実上の逸話
- 真偽が定かではない逸話
- 他流派の伝承上における宗矩の逸話
- 著作
- 創作物上の扱い
- 関連サイト
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての 柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
誕生から徳川家仕官
| 大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の5男として生まれる。 |
| 母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)である。 |
| 兄に厳勝、宗章らがいる。 |
| 少年時代に太閤検地の際の隠田の露見によって父が失領していたが、文禄3年(1594年)、徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父の推挙により、家康に仕えることとなった。 |
柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣
| 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受け、筒井氏や大和の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領の大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。 |
| 更に慶長6年(1601年)に後の2代将軍徳川秀忠の剣術師範役となり1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となる。 |
| その後、元和7年(1621年)には後の3代将軍徳川家光(当時は竹千代)の剣術師範としても任ぜられた。 |
| 慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍秀忠のもとで従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀で瞬殺したという渡辺一郎「兵法家伝書」では出典を「徳川実紀」とするが記載がない。 |
| 永岡慶之助「柳生の剣と武蔵の剣」では「安藤治右衛門家書」に出典があるとする。 |
| なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。 |
坂崎事件
| 大坂の役の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件(坂崎事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。 |
| なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。 |
| その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に友人を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。 |
| これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。 |
| またこの際、坂崎の嫡子平四郎と2人の家臣を引き取っている。 |
家光の下での躍進から大名へ
| その後、将軍へと就任した家光の信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)に従五位下に叙位、但馬守に任官する。 |
| さらに寛永9年(1632年)には、3000石を加増された後、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。 |
| その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)の4000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。 |
| 晩年さらに加増を受けて所領は1万2500石に達した。 |
| 一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。 |
| ただし、元々将軍や大名である人物が剣豪になった例(足利義輝、北畠具教、松浦清(静山)など)や、陪臣のため大名ではないが、宗矩以上の石高(1万3000石)を得ている富田重政などの例もある。 |
晩年
| 肺癌のため正保3年(1646年)に没し、自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺に葬られた。 |
| また死に際し、その死を惜しんだ家光より従四位下を贈位された。 |
| 子には隻眼の剣士である長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4子が知られる。 |
評価
| 剣術面においては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。 |
| 将軍家指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人」「刀法の鳳(おおとり)」「剣術無双」と賞賛されている。 |
| 新陰流(柳生新陰流という呼称は現在の通称)を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。 |
| これにより、柳生新陰流は当時「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った(江戸時代前半、多くの藩に宗矩の門弟が指南役として仕官している)。 |
| また、「活人剣」を提唱し、戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術に、「活人剣」「剣禅一致」などの概念を組み込むことで、人間としての高みを目指す武道に昇華した。 |
| この宗矩の思想は、柳生家の伝書である『兵法家伝書』として著され、後に『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』などにも影響を与えることになる。 |
| この他、勝海舟が絶賛している。 |
| 幕臣としては、有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。 |
| 伊達氏(伊達政宗)、鍋島氏(鍋島勝茂、鍋島元茂)、細川氏(細川忠興、細川忠利)、毛利氏(毛利秀就)などと親交があった。 |
| 幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。 |
| また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。 |
| 将軍家光との関係においては、若いころよりの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。 |
| 本来は一介の剣術指南役ではあったが、剣を通じて禅や政治を説いたことで、「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価されている。 |
| 家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受け、最後まで信頼され続けた。 |
| 父親としては、子息4人のうち、長男三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、3男宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について、これは沢庵よりも忠告を受けている。 |
| 「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書にて父・宗矩を賞賛している。 |
宗矩の言葉
| 「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。 |
| 是はいとちいさき兵法也。 |
| 勝負ともに、其得失僅か也。 |
| 一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」。 |
| 「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」。 |
| 「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。 |
| 人をきるにはあらず、悪をころす也」。 |
| 「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」。 |
| 「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。 |
| 又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。 |
| わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」。 |
| 「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。 |
| 乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」。 |
| 「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」。 |
| 「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」。 |
| 「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」。 |
宗矩の門下
| 将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。 |
| それらの弟子達には、大名家へ指南役として仕えた者も多かった。 |
| また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。 |
| 徳川将軍家 :徳川秀忠、徳川家光。 |
| 熊本藩細川家:細川忠利。 |
| 佐賀藩鍋島家:鍋島勝茂、鍋島元茂。 |
| 三池藩立花家:立花直次。 |
| ;御三家・一門・親藩御三家筆頭・尾張徳川家がないのは、尾張徳川家剣術指南を尾張柳生家が務めており、江戸柳生家と尾張柳生家は師弟関係ではないためである。 |
| 紀州藩紀州徳川家:木村助九郎、小夫浅右衛門、村田与三。 |
| 水戸藩水戸徳川家:小滝与三衛門。 |
| 高田藩越後松平家:荘田嘉左衛門。 |
| 福井藩越前松平家:出淵平兵衛。 |
| 会津藩保科家 :小瀬源内。 |
| 伊予松山藩久松家:松下源太夫、松下八郎右衛門、松下小源太。 |
| 下総古河藩土井家:萩原猶左衛門。 |
| 大和高取藩植村家:西江織部。 |
| 山城淀藩石川家 :野殿貞右衛門。 |
| 岸和田藩岡部家 :多羅尾又兵衛。 |
| 柳川藩立花家 :戸塚治太夫。 |
| 仙台藩伊達家 :狭川新三郎この他、伊達家には宗矩の甥(利厳の弟)、柳生権右衛門も仕えている。 |
| 土佐藩山内家 :小栗仁右衛門。 |
史実上の逸話
| 紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海や堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。 |
| 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけをつくった(『徳川実紀』)なお、この逸話は新渡戸稲造の『武士道』において、武士と禅の関係についての話として引用されている。 |
| 島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜』)。 |
| 甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳)が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬)に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという(『玉栄拾遺』)。 |
真偽が定かではない逸話
| 家光より大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した。 |
他流派の伝承上における宗矩の逸話
| なお、寛永10年(1633年)2月の家光による1000石以下の小姓番・書院番の番士全員への一律200石加増により、忠常の代に小野家は800石になっているため、加増がないということも史実に反している。 |
著作
| 『進履橋』『殺人刀』『活人剣(「無刀之巻」含む)』の3部構成となっており、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「無刀」については吉川英治の小説『宮本武蔵』、それを原作とした漫画『バガボンド』の影響もあり、一種の悟りの境地、あるいは平和主義的な思想として捉えられる事もあるが、この伝書内で語られる「無刀」は、「わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」とある通り、”刀がない状態で危機に陥った際、如何に対処するべきか”という実用重視の護身術的なものである。 |
創作物上の扱い
| 史実においては、将軍家兵法指南役(公的な場における武芸の最高権威)にして、当時最大の剣術流派の宗家という立場、使番や惣目付などを歴任し大名にまでなった将軍側近としての立場、個人としての家光や沢庵その他諸大名との交流、十兵衛三厳などの子供達との関係や尾張柳生家との不仲など、同時期の他の武芸者と比較し様々な側面を持つことから、その人物像は作家/作品によって大きく異なる。 |
| しかし、小説では五味康祐、荒山徹、宮本昌孝、朝松健の諸作、映画・ドラマ『柳生一族の陰謀』、大河ドラマ『武蔵MUSASHI』などにおいては、幕府安泰のために陰謀や暗殺を遂行する闇の世界の人物として描かれている。 |
| また、その中でも、秀忠を悪役とする作品では、宗矩もその配下の悪役として描かれがちである(小説では隆慶一郎の諸作や漫画『あずみ』、ゲーム『新鬼武者DAWNOFDREAMS』など)。 |
| また惣目付に就任していた影響などから、「裏柳生」と呼ばれる密命を帯び謀反の芽を摘み取ったり、柳生一族の邪魔になるような者を排除を目的とする忍者や武術、暗殺集団の頭領とされることもある。 |
| また柳生一族や将軍家剣術指南役の確執の主軸として描かれる場合もあり、柳生利厳が「一国一人の印可」を受けて新陰流を継承した尾張柳生、天下の剣術指南役の江戸柳生といった史実から江戸柳生と尾張柳生の対立の軸としてとりあげられる事や同じく将軍家剣術指南役の小野派一刀流との確執などが描かれる。 |
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上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術... |
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