| 1875年(明治8年)7月31日-兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)に儒者・松岡操、たけの6男として生まれる。 |
| 松岡家は代々の医家。 |
| 1884年(明治17年)-一家で兵庫県加西郡北条町に転居。 |
| 1885年(明治18年)-高等小学校卒業。 |
| 1年間、辻川の旧家三木家に預けられ、和漢の書籍を乱読する。 |
| 1887年(明治20年)-兄・鼎(かなえ)が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住する。 |
| 1893年(明治26年)-兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町(現・我孫子市)に移住する。 |
| 1897年(明治30年)-第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。 |
| 東京帝国大学法科大学入学。 |
| 1900年(明治33年)7月-東京帝国大学法科大学卒業(法学士)。 |
| 農商務省農務局農政課に勤務。 |
| 以後、全国の農山村を歩く。 |
| 早稲田大学で「農政学」を講義する。 |
| 1901年(明治34年)5月-柳田家の養嗣子として入籍する。 |
| 養父直平(旧・飯田藩士)は大審院判事であった。 |
| 1902年(明治35年)2月-法制局参事官に任官。 |
| 1904年(明治37年)4月-柳田直平四女孝と結婚。 |
| 1907年(明治40年)2月-島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。 |
| 1908年(明治41年)1月-兼任宮内書記官。 |
| 1910年(明治43年)6月-兼任内閣書記官記録課長。 |
| 1911年(明治44年)3月-南方熊楠との文通『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』(平凡社「南方熊楠選集別巻」、新版平凡社ライブラリー上下)参照。 |
| 1913年(大正2年)3月-雑誌『郷土研究』を刊行。 |
| 1914年(大正3年)4月-貴族院書記官長。 |
| 1915年(大正4年)11月-京都における大正天皇の即位式に奉仕、提言を残す(当時は未公開)、この年に折口信夫と出会う。 |
| 1919年(大正8年)12月-貴族院書記官長を辞任上司の議長徳川家達(徳川宗家)との不和衝突が原因で、官界を辞め立身出世から外れ、以後学者として高名を挙げていった。 |
| 岡谷公二『貴族院書記官長柳田国男』(筑摩書房、1985年)と、山本一生『恋と伯爵と大正デモクラシー有馬頼寧日記1919』(日本経済新聞出版社、2007年)で、辞任の経緯は詳しい。 |
| 1920年(大正9年)8月-東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。 |
| 全国各地を調査旅行。 |
| 1921年(大正10年)-渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。 |
| 国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。 |
| 1922年(大正11年)-新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。 |
| エスペランティストのエドモン・プリヴァ(EdmondPrivat)と交流し、自身もエスペラントを学習。 |
| 1923年(大正12年)-帰国。 |
| フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。 |
| 1924年(大正13年)4月-慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。 |
| 1926年(大正15年)7月-財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。 |
| (日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro)1926年版参照)。 |
| 1940年-朝日文化賞受賞。 |
| 1946年(昭和21年)7月-枢密顧問官就任。 |
| 日本国憲法審議に立ち会う(翌年に憲法施行に伴い廃止)。 |
| 1947年(昭和22年)3月-自宅書斎隣に民俗学研究所を設立(晩年に解散)。 |
| この年、帝国芸術院会員(同年末日本芸術院に改称)。 |
| 1949年(昭和24年)。 |
| 3月-日本学士院会員に選任。 |
| 4月-民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。 |
| 1951年(昭和26年)11月-文化勲章受章。 |
| 1962年(昭和37年)8月8日-心臓衰弱のため自宅で死去、。 |
| 墓所は神奈川県川崎市の春秋苑。 |