56566
56931
703471
%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB
%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB
%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB
%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB%20-%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB%5B2%E4%BB%A3%E7%9B%AE%5D%20-%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB%5B4%E4%BB%A3%E7%9B%AE%5D%20-%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB%5B%E5%88%9D%E4%BB%A3%5D
%E6%A1%82%E6%96%87%E5%9C%98%E6%B2%BB
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 桂文團治の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
タグはありません
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 桂文團治とは
- 初代
- 2代目
- 3代目
- 4代目
- 参考文献
桂文團治(かつらぶんだんじ)は、上方落語の名跡。文団治とも表記する。初代が、師匠・ 桂文枝の「文」、歌舞伎の初代 市川右團次の「團」、桂一門の宗家・ 桂文治の「治」から「文團治」としたのが始まり。4代目の死後は空き名跡となっている。
初代
| 初代桂文團治(1842年-1886年9月14日)は、本名:鈴木清七。 |
| あだ名を風貌から「塩鯛」、俳名も同じ。 |
| 元は米屋の養子であったともいい、かもじ屋であったとも伝える。 |
| 素人落語の連中に加わり半面を付けて高座に上がり三味線を弾いて人気を取った。 |
| 1871年頃に初代桂文枝の門下で初代桂米丸を経て、1873年から1875年年頃に初代市川右團次の懇意から文團治を名乗る。 |
| 同門の初代桂文三(後の2代目桂文枝、桂文左衛門)、2代目桂文都(後の月亭文都)、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)らと共に「四天王」として称えられた。 |
| 明治10年代、商才にも長けており、貸車屋、茶店などを出し蓄財し平野町御霊神社に自席を営んだ、その実力、人気共にずば抜けていた。 |
| 新聞落語なども手掛けたようだが、あくまでも正統派で性格は覇気満々で、文三の当初の対抗馬はこの文團治であった。 |
| ある時沖仲仕の荒くれ男が寄席で『蜆売り』を聴き情に溢れ泣いてしまう。 |
| その後『笑うつもりで寄席に来たのに、オイオイ泣かすとは勘弁ならん』と楽屋に怒鳴り込んできた。 |
| 文團治は返す刀で『笑うところ、泣くところ有っての芸で御座います。 |
| 』と挨拶し金5円を包んで渡し、大喜びで帰った男は後に近所では『蜆売りの平吉』で通ったという。 |
| しかし、1886年、3代目桂文吾、4代目林家正三と同じく、流行のコレラのため若くして死去。 |
| 道頓堀に新しく一門の寄席を作った矢先であった。 |
| なお、『米揚げ笊』はこの初代の作といわれる。 |
| 『三枚起請』『妾通い』等の色っぽい落語得意とした。 |
| 主な弟子には、2代目桂文之助、2代目桂文團治(後の7代目桂文治)、初代桂歌團治(後に5代目笑福亭吾竹から笑福亭吉右衛門となる)、初代桂玉團治(後の3代目桂文都)、3代目桂文團治、桂鯛團治(後の桂三五郎)らがいる。 |
2代目
| 2代目桂文團治(1847年4月15日-1928年9月18日)は、後の7代目桂文治。 |
| 本名:平野次郎兵衛(治郎兵衛、治良兵衛、治良平など諸説あり)。 |
| (満)。 |
3代目
| 3代目桂文團治(1856年-1924年4月9日)は、本名:前田七三郎。 |
| 享年69享年69は、数え年による。 |
| 生年月日不明のため満年齢不詳。 |
| 道頓堀金屋町の公儀銅吹屋・大阪屋儀兵衛の一人息子として生まれるが、明治維新で生家が廃業となり、商家へ丁稚奉公をする。 |
| 16歳の時からは放蕩を覚える。 |
| (尚出生ついては諸説ある)。 |
| 23歳の時、立川三玉齋の門下に入門し、三吉を名乗る。 |
| 三玉齋の死後、1879年頃に2代目桂文枝(後の桂文左衛門)。 |
| の門下に移り文朝。 |
| 更に3代目林家菊枝(後の4代目林家正三?)の門下で菊松。 |
| その後、初代文團治の門下に移り初代米朝、1885年に順朝、1886年に再度米朝となるが、1887年に極道のため師の勘気を蒙り、2代目文團治(後7代目文治)に預けられ、2代目米團治を経て、1908年11月に3代目文團治を襲名。 |
| 住所から「畳屋町」と呼ばれ、師匠と共に上方落語界に睨みを利かせていた。 |
| 大看板として噺振りには艶があり、風格の有る人物であったと伝える。 |
| 『五人裁き』『立ち切れ線香』、後には『蜆売り』『鴻池の犬』などを十八番とした。 |
| また、寸鉄人を刺す皮肉や小言を良くしたため「大毛虫」と呼ばれ、その弟子の3代目桂米團治も気障な所がそっくりで「小毛虫」と呼ばれた。 |
| なお前座のヘタリ時代に林家とみも小言を言われ難儀したとインタビューの取材で語っていた。 |
| 元々極道者であり、腹部には女の生首、全身には花札の彫り物を散らしていた。 |
| 座敷ではふんどし姿になってその花札を数えさせ、どうしても一枚足りない所で、客から「ふんどし取れ」と声がかかる、しかしふんどし取らず片足を上げると、足の裏には雨のカス札が彫ってある、という趣向で受けたという。 |
| 彫り物は銭湯に行くと客から声が掛かるほどだったという。 |
| あまりにも見事だった為洋画家の小出楢重がスケッチしたほど。 |
| 皮膚は某大学の標本室に現在でも保管されているという噂もある。 |
| 晩年は喉頭癌となり、最後の高座は1923年5月の南地花月の『泣塩』を演じたのを最後に静養生活に入った。 |
| 1924年4月の引退興行では声が出ず、涙を誘ったという。 |
| 師匠の2代目に先立って亡くなった。 |
| 没後噺家芝居で使用したかつらなどは借金のかたとして吉本興業に取られ、それを三遊亭志ん蔵が譲り受け、その後は晩年の志ん蔵を世話していた3代目桂米朝が夫人から譲り受けた。 |
| 主な弟子には、3代目桂米團治、2代目桂梅團治、桂塩鯛、4代目桂文團治らがいる。 |
| ちなみに、俳優の嵐寛寿郎は、この3代目文團治の義理の孫(妻の前夫が人形浄瑠璃の初代桐竹紋十郎で、その孫)に当たる。 |
4代目
| 4代目桂文團治(1878年8月6日-1962年12月14日)は、本名:水野音吉。 |
| 満。 |
| 京都生まれ、水芸一座の後見役、新派の俳優、曾我廼家一座の頭取などを経て噺家になった。 |
| 1894年5月、2代目桂米團治(後の3代目文團治)に入門して麦團治を名乗る。 |
| 次に上方初代三笑亭芝楽の門下で2代目小芝。 |
| 三升家紋彌(後の三升家紋右衛門)の門下で紋兵衛。 |
| 1921年以降、旅興業などで講談を手がける際は杉山文山(「杉山」は当時の住所の森之宮杉山町から)を、落語家としては再び桂麦團治を名乗る。 |
| 1949年ごろ、4代目文團治を襲名(実際には戦中、地方巡業の時などには勝手に文團治を名乗っていた模様)。 |
| 戦後は半ば引退した形であったが、上方落語界の人材が払底する中、橘ノ圓都らと共に長老として再び高座に上がることとなった。 |
| なお上方落語協会が発足すると顧問を務めた。 |
| 得意演目は『島巡り』『三十石』『鬼あざみ』『帯久』『らくだ』など、膨大な持ちネタを誇った。 |
| 若い頃は艶噺もやっていたという。 |
| 歴代の桂春團治に『鋳掛屋』を伝え、3代目には『高尾』も稽古付けた。 |
| 戦前の高座では、講談のほか、「霊狐術」(一種の超能力を装った手品)や「新粉細工」など、色物としても豊富なレパートリーを誇り、芸の虫であった。 |
| 講談をやっていた頃は特定の師匠はいなかったが自身が古本屋で速記本を買ってきてはそれで覚えて演じていた、落語の要素を入れたりくすぐりを入れたりして工夫して演じていた。 |
| また、巨躯から「ゴジラ」の愛称で親しまれた。 |
| 喘息持ちで、死因も喘息による心臓発作であった。 |
| 主な弟子には、2代目桂麦團治、4代目桂文紅、実子の桂一二三(後の曾我廼家勢蝶)、桂綾之助らがいた。 |
| 没時まで唯一現役だった弟子・文紅は、5代目文團治襲名を考えてはいたようだが、「まだ尚早」として結局襲名しないまま、4代目没後40年後の2003年に死去した。 |
| これにともない、4代目文團治の系統は途絶えたが、4代目の兄弟子である3代目桂米團治の系統は現在の上方落語界で最大勢力となっており、文紅没後、文團治ゆかりの名である米團治の名跡を、3代目米團治の曾孫弟子である5代目米團治が、同じく文團治系の塩鯛の名跡を3代目米團治の玄孫弟子である4代目塩鯛が襲名している。 |
| なお、朝日放送には、「ABC上方落語をきく会」で収録された音源が多数残されている。 |
| なお上方落語を代表する初代桂春團治は同い年で誕生日も2日違い。 |
参考文献
| 『落語系圖』(月亭春松編)。 |
| 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)。 |
| 『桂春団治』(富士正晴著)。 |
| 『上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1978年)。 |
| 『ご存じ古今東西落語家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)。 |
|
1885年
|
順朝、1886年に再度米朝となるが、1887年に極... |
|
1886年
|
3代目桂文吾、4代目林家正三と同じく、流行の... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
桂文治
落語家(上方噺家)。本名:平野次郎兵衛(治郎兵衛、治良兵衛、治良平など諸説あり)。享年81。13歳の時から東京の商家で丁稚となる。22歳の時に帰阪し、米屋... |
|
|
桂文枝
桂文枝(かつらぶんし、1930年4月12日-2005年3月12日)は上方の落語家。本名は長谷川多持(はせがわたもつ)。 |
|
|
桂米朝
旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家(上方噺家)。本名、中川清(なかがわきよし)。出囃子は『三下り鞨鼓(三下りかっこ)』。俳号は... |
|
|
桂米團治
落語家(上方噺家)。本名は中濱賢三(なかはまけんぞう)。出囃子は『羯鼓』。 |
|
|
桂文三
碁盤の上に山桐一本歯の下駄をはき、両手両足、果ては顔にまで、松模様の金泥の扇子を広げる技巧的な踊りである。人気者となった扇枝は、1894年7月(明治27年... |
|
|
橘ノ圓都
神戸出身の上方噺家。本名:池田豊次郎。享年89。出囃子は『薮入り』。 |
|
|
桂文紅
上方噺家。出囃子は『お兼晒し』。大阪府生まれ。寝屋川高等学校、立命館大学文学部出身。本名:奥村壽賀男。。米朝事務所所属であった。 |
|
|
桂歌團治
上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。 |
|
|
市川右團次
幕末から大正期の大阪の歌舞伎役者。本名は市川福太郎(いちかわふくたろう)。俳名は家升・采玉・米玉。雅号は夜霜庵。屋号ははじめ鶴屋、のち高嶋屋。 |
|
|
桂枝雀
兵庫県神戸市生まれの落語家。3代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後2代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも人一倍の努力と類稀... |
|
|
桂文我
桂文我(かつらぶんが、1960年8月15日-)は三重県松阪市出身の落語家。本名は大東幸浩(おおひがしゆきひろ)。出囃子は「せり」。 |
|
|
桂文之助
落語家の名跡。上方と江戸の二流あるが、いずれも空き名跡となっている。また、上方の方は大名跡である。 |
|
|
桂文左衛門
紀州粉川(和歌山県粉河町)生まれの上方噺家。本名:渡辺儀助。享年72。最初初代桂萬光門下で初代桂南光を名乗る。明治2年に立川三光(3代目立川三光)門下で... |
|
|
桂文都
上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。東京では、4代目襲名以降と推測されるが、1928年3月に9代目土橋亭里う馬が桂文都を名乗ったと記録にある(上方... |
|
|
桂文光
上方落語の名跡。過去に2代の存在が確認できるが、いずれも代数は名乗っていない。現在は空き名跡となっている。桂文光(1861年-1925年)は、後の上方初代三... |
|
|
月亭文都
大阪市中央区空堀生まれの落語家(上方噺家)。本名:岡田龜吉。享年57。出囃子は『玉川くずし』。生家は曲物職人。初代桂文枝以前の経歴については不明な点が... |
|
|
笑福亭松鶴
上方噺家。大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会所属。本名は竹内日出男(たけうちひでお)。出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落... |
|
|
三遊亭萬橘
三遊亭萬橘(さんゆうていまんきつ)は寄席芸人の名跡。珍芸「ヘラヘラ」で名を挙げた初代が特に有名であり、ヘラヘラを継承していない3代目が新聞で「ヘラヘ... |
|
|
桂米丸
神奈川県横浜市出身の落語家。社団法人落語芸術協会最高顧問。本名は須川勇(すがわいさむ)。出囃子は『金比羅舟々』。 |
|
|
桂文團治さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|