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プロフィール
- 桑田真澄とは
- プレースタイル
- 人物
- 小学時代
- 中学時代
- 高校時代
- ドラフト指名
- 10.8決戦
- 第2次原監督時代
- 大リーグ移籍
- 関連書籍
- 関連サイト
桑田真澄(くわたますみ、男性、1968年4月1日-)は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。投手としては恵まれない体格ながら、理想的な投球フォームと、野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とするプロスポーツ選手も多い。現在はボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長、指導者講習会を行う特定非営利活動法人アミーチ・デル・クオーレの理事長を務めている。既婚者で息子が2人いる。プロゴルファーの 桑田泉は実弟。
プレースタイル
| カーブを軸とした「コンビネーションピッチャー」の一人。 |
| 140km/h台の速球、カーブ、シュート、フォークちなみにSFFを投げた日本人投手のはしりである。 |
| 桑田自身は「サンダーボール」と命名して使っていた)、スライダー、遅いストレート(チェンジアップではない)を打者や調子によって織り混ぜ、173勝を積み上げた。 |
| カーブには主に全盛期時に投げていたカーブと、2002年の最優秀防御率賞奪取に貢献し、メジャー時代(後期)にも投げていた緩めのカーブと二種類あり、前者はキレを中心としたドロップ系の比較的速いカーブ、後者は山なりの軌道を描くスローカーブ(ドロップカーブ)である。 |
| 後者のカーブは「レインボール」、「レインボーカーブ」、「すしボール」といろいろの名で呼ばれていた。 |
人物
| 高校時代はエースとして活躍する一方、打者としても清原和博ともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評があった一例として、達川光男は、自身のMSNのコラム「モノが違いますね」(連載終了)「第15回甲子園が生んだ新旧のスター」(2007年8月24日掲載)で、「桑田という選手は、本当に何でもできる選手でした。 |
| ピッチャーとしての能力は言うに及ばず、牽制はうまい、守備はうまい、打撃も野手顔負け。 |
| 」「桑田がプロに入ってきたころ、私がいた広島が非常に強くて、桑田は広島戦で勝つことに執念を燃やしていました。 |
| その頃の思い出というと、円山球場で北別府学から3ランを打ったことですかね。 |
| 桑田のバッティングは本当に凄くて、私もこんな経験があります。 |
| ピンチの時にバッターが8番の村田で、ピッチングコーチが村田を敬遠して桑田と勝負しろと言ってきたんです。 |
| 私は「いやいや、村田より桑田の方がいいバッターだから、もう一度ベンチで考え直して下さい」と言いましたよ。 |
| 結局桑田と勝負したんですけどね。 |
| ささやき戦術もよう使いました。 |
| 『お前のことをピッチャーとは思ってないけんの、悪いけどシュート使わせてもらうぞ』とか言ったりね。 |
| 中には桑田がひっくり返ってしまうようなボールを要求したこともありました。 |
| でも桑田は、何一つ文句は言いませんでしたね。 |
| ゴールデングラブ賞を通算8度獲得するなど守備のうまさにも定評があった(投手として8回の受賞は西本聖と並び史上最多タイ)。 |
| 大阪出身、PL学園卒でありながらメディア(TVインタビュー、誌上)等での関西弁でのコメントは皆無に近く、ほとんどを所謂「標準語」で通している。 |
| 現在の野球の指導のあり方に不満や問題点を挙げており、スポーツニュース(特に準レギュラーのS☆1)などでよく持論を披露する。 |
| 非喫煙者で嫌煙家。 |
| 非喫煙者が受動喫煙させられることに立腹し、スタッフに働きかけ、1台だった移動用バスは、2台になり、1台は禁煙車に変更、また「ロッカールームは禁煙、食堂は喫煙」と分煙化を達成。 |
| 春先のキャンプでは禁煙ルームを設置できないので全面禁煙化を達成させた「心の野球」P193-194。 |
| 「プロ野球ニュース」に出演した際、中井美穂アナウンサーに「納豆僕好きなんですよ。 |
| 」関西出身は納豆嫌いという固定観念をふまえて)と答えていた。 |
小学時代
| 小学2年生より町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」でソフトボールを始め、6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得「野球バカ」P26-27、チーム名は「週刊読売」1985年12月29日号「アルバム特集桑田真澄、野球とともに17年の全雄姿」のモノクロページに記載。 |
| 小学3年生よりボーイズリーグの八尾フレンドに所属し八尾フレンドの入団時期については文献により記述が一致しない。 |
| 「野球バカ」P33、「桑田真澄ピッチャーズバイブル」P178、(文庫版)P226には小3と記載。 |
| 「試練が人を磨く」P120、(文庫版)P138では「少年野球には、小学4年生から参加した。 |
| 初めて硬式のボールを握れる。 |
| 「野球を学問する」P57では「平田『で、小学3年生の時に、小6のチームに入ることになるんですよね。 |
| 』桑田『はい、そこでまた(いじめを)やられましたね。 |
| 』平田『小学生の時に一度野球をやめたことがあると伺いましたが…。 |
| 』桑田『その3年生の時です。 |
| 2~3ヶ月でやめちゃったんです。 |
| だから、3年生から4年生の間は、壁に向かってボールを投げたり、自分で遊んでいただけでした。 |
| この間は野球らしい野球はしていません。 |
| 』、同P60では「桑田『5年生になって、ようやく違う野球チームに入ったんです。 |
| そこは5年生のチーム、6年生のチームと分かれていたので、先輩からはやられませんでしたが、やはり監督、コーチからは(しごきが)すごかったですね。 |
| 3年で入団したチームと5年で入団したチームが同じなのか違うのか、真偽は不明である。 |
| 、父親である泰次により創意工夫された練習や特訓なども行っていた父泰次の著書である「野球バカ」第2章に、詳細な記述がある。 |
| 例えば、古タイヤをバットで叩く練習で腰を鍛える方法や、げんのうで五寸釘を木屑に打ち込んで手首を鍛えたりする練習方法の記述がある。 |
| またキャッチボールではミットを動かさないようにして投げた球が逸れると自分で取りに行かせる方法でコントロールをつける練習、正しい捕球の仕方を覚えさせる為にグローブの綿を抜くなど、その他多くの方法で練習、特訓をしていた。 |
| 親子の特訓は小4から中学卒業まで続いた(「野球バカ」P44)。 |
| 小学5年生の終わりより主戦級投手として活躍「野球バカ」P77。 |
中学時代
| 1980年4月、八尾市立大正中学校に入学し「野球バカ」P86、野球部に所属。 |
| 準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場。 |
| 入学直後に外野手兼一塁手としてレギュラーポジションを獲得。 |
| 中1秋から主戦級投手として活躍「野球バカ」P89。 |
| 中2時(1981年)には、第32回大阪中学校優勝野球大会で優勝した守口市立八雲中学校(エースは後にPLで1年先輩になる清水哲)に0-1で惜敗「野球バカ」P100。 |
| 中3時(1982年)には、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇「野球バカ」P100-101、「夢のつづき」P33。 |
| 大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが上宮高校⇒南海⇒広島⇒巨人でプロ野球選手として活躍した西山秀二(前・巨人一軍バッテリーコーチ)である「野球バカ」P92-P93。 |
| 桑田、西山率いるこの年の大正中は投打とも群を抜く強さだったと言われ「野球バカ」P101によると桑田は全5試合で完投し合計37イニングを投げて被安打11、失点1、奪三振44だったとのこと。 |
| 、また大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。 |
| 負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、当時の怪物桑田を物語る逸話が掲載されている。 |
| 準硬式の関係者の間では「大正中学に桑田あり」とその名を轟かせていた。 |
| 西山は、「140km/hくらいの球を、中学生の頃から放ってたね。 |
| ミットを構えた所にしか、ホンマにボールが来なかった「不惑桑田・清原と戦った男たち」P40-41。 |
| プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田はこんな所に来ぃへんかったもん。 |
| 中学生でもそうなのに、なんでプロが出来ないの?』と聞きましたよ「不惑桑田・清原と戦った男たち」P46-47。 |
| 高校野球で、1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった「不惑桑田・清原と戦った男たち」P60。 |
| 進路方針などで学校側と問題に発展し、中3の3学期に八尾市立成法中学校に転校し、卒業「野球バカ」P105-114によると、桑田と同じPL学園に進みたいというチームメートをセットで入学させようと顧問が画策させていたとのこと。 |
| 「野球を学問する」P61では「桑田『最終的には、“勉強のレベルも高く、野球も強いから、ここでどうだ”と、ある高校を提示されました。 |
高校時代
| 1983年4月、PL学園高校入学。 |
| 高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。 |
| PL入学直後は桑田自身の言によると、「4番は清原、エースは田口」という既定路線で、桑田以外の2人の長身の1年生が期待されており、172cmしかない桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだった「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー逆転入団の真相桑田真澄(17)が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと聞き手:海老沢泰久」P44-45に桑田自身の言葉として「僕なんかは、桑田は向こうにいっておけという感じで、同じ1年生でも清原、田口は来い、と。 |
| 失意の中、ある日、母親が練習を見に来、「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と打ち明ける「Number」720号「桑田真澄球友へのメッセージ」P81に「キヨ(清原和博)の他にもう一人、同期に田口権一という192cmもあるピッチャーがいて、彼もレギュラー組で練習していました。 |
| 甘い言葉を期待していた桑田の意に反し、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい「桑田真澄ピッチャーズバイブル」P179、(文庫版)P228、「試練が人を磨く」P28-29、(文庫版)P46-47、「Number」720号「桑田真澄球友へのメッセージ」P81に「そうしたら、お母さんに『自分で目標にしてきた学校でしょ。 |
| 「もう辞めさせて下さい」と何時言いに行こうかと思いながら、汗を流す毎日が続いた「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー逆転入団の真相桑田真澄(17)が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「1ヶ月間で、地獄から天国に上がったみたい。 |
| 1981年、1982年と春の選抜を連覇したPLも、夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令だった「野球バカ」P117。 |
| この年のPLは投手陣が安定せず、中村順司監督は、市神港、報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する「心の野球」P126、140。 |
| 一例として炎天下の投球練習で、構えた所に来たボールしか捕らず、逸れるとダッシュでボールを捕りに行かせる、桑田のみ補強運動の回数の追加、マッサージとタイル磨きの強制による指先の鍛錬、ローソクが消えるまで室内でシャドウピッチング、肘の強化の為のストレッチ、入浴時や食事の際に、試合の中での状況判断、配球、打者心理の読み方等の頭脳面の指導、バッティングのポイント指導など。 |
| 夏の甲子園の大阪府大会に背番号17で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー逆転入団の真相桑田真澄(17)が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「予選の場合ベンチに入れるのは、大阪では17番までです。 |
| 打撃も買われての、投手兼外野手としての登録だった「Number」153号「桑田真澄たった一度の敗戦不滅の記録、甲子園20勝投手の栄光と孤独」文:鈴木洋史P12に桑田の1年でのメンバー入り要因として1.前年秋からレギュラーだった1級上の(投手も出来る)清水哲が肋骨を折り、メンバー入りが不可能だったこと2.上級生投手に不安があったこと3.清水一夫臨時投手コーチの進言があったこと4.3年の一部の父母から『今年は出られそうもないから、なんとかして有望新人の清原君と桑田君をメンバーに入れて、甲子園に出られるようなチームにして欲しい。 |
| 当初、監督は難色を示したが「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー逆転入団の真相桑田真澄(17)が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「後で聞くと、監督はすごい反対したんですけど」と記載、清水の並々ならぬ自信と迫力、そして投手コーチとしての力量に、思い切った起用を決意「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77。 |
| 1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は東邦の坂本佳一、早稲田実業の荒木大輔のように過去にもあったが、いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったこととなる。 |
| 1985年、3年生の春はベスト4、夏は決勝戦で宇部商を下し優勝。 |
| 桑田はプロに進んだ時の事を考え、ストレートとカーブのみで3年間通した「野球を学問する」P90-91、「試練が人を磨く」P138-139、(文庫版)P156-157、「Number」759号「1984決勝PL学園vs取手二血染めのボールに誇りを込めて」文:石田雄太P24では、桑田自身のコメントとして「まっすぐとカーブで高校生を抑えられないようなピッチャーは、プロで大成するわけがないと思っていた」と記載。 |
| 5回の大会の中で桑田・清原のいたPL学園を1失点以内で抑えた投手は、2年生春の準決勝で延長11回で0-1で敗れた田口竜二(都城高⇒南海)、同決勝で1-0で投げ勝った山口重幸(岩倉高⇒阪神)、3年生春の準決勝で3-1で投げ勝った渡辺智男(伊野商⇒NTT四国⇒西武)といずれもプロ入りをしている。 |
ドラフト指名
| 桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、巨人との密約が囁かれる(KKドラフト事件)「野球バカ」第5章によると、「最後まで進学かプロ入りかを相当迷っていたこと」、及び「巨人希望であった清原への配慮などから自身も巨人が希望球団の1つであったことを言い出せなかった」等の内容が記述されている。 |
| 「週刊読売」1985年12月29日号「初の単独インタビュー桑田真澄胸の内を明かす聞き手:山際淳司」P17に、「桑田『夏の大会が終わってドラフトまでの約3ヶ月、学校の方からは一度も退部届を出せと言われなかったし、早稲田への推薦入学の手続も取っていましたから、それ以上考えようがなかった。 |
| 勿論、獲れる勝算はありと判断してのことです」とドラフト指名直後の王監督の談話を紹介」と、指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かした「週刊ポスト」1986年1月1日号「独占!新春名球対談金田正一VS王貞治」P56に「金田『どの時点で決断したの?』王『指名の候補者は投手と野手に分けてリストアップしてたわけ。 |
| 桑田で行こうと決断したポイントとして、「状況に応じたピッチングができること」、桑田で印象に残るプレーとしては、「1985年春の選抜の天理戦でトリプルプレーを決めたこと「週刊ポスト」1986年1月1日号「独占!新春名球対談金田正一VS王貞治」P55に王の発言として「強烈に印象に残っているのが、春の甲子園での三重殺だね。 |
10.8決戦
| 1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際は、8回2死までノーヒットノーランに抑え「試練が人を磨く」P84-86、(文庫版)P102-104、堀内コーチの指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板。 |
| 8回先頭打者のPLの後輩で同室だった立浪和義を内野ゴロに打ち取ったつもりが立浪は一塁ベースに執念のヘッドスライディングで内野安打となったが、左肩を痛め代走鳥越裕介と交代し負傷退場。 |
第2次原監督時代
| 吉村禎章二軍監督に、首都圏での最終登板機会である9月24日、読売ジャイアンツ球場での二軍戦は自分に投げさせてくれるよう懇願し、「球団が処遇をはっきりしてくれないので、お世話になったファンに巨人での最後の登板を知らせるには、これしか方法がなかった為」9月23日、球団のホームページにある自身のページ『LIFEISART』で退団と2軍戦登板を示唆する内容の文章を掲載する「明日、ジャイアンツのユニホームでマウンドに立つのは、おそらく最後になるだろう」「21年間、大きく育てていただいた、ジャイアンツに心より感謝している。 |
大リーグ移籍
| 39歳70日でのメジャーデビューは日本人選手では史上1位(当時、現在は高橋建に次いで2位)、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ記録となった。 |
関連書籍
| 『野球バカ』(桑田泰次(著)、講談社、2000/7、桑田真澄の実父による著作、桑田の少年時代、大正中学教員による桑田のPL学園進学妨害、PL学園での1年生時の練習や寮での生活の様子、1年で夏の甲子園を制するまでのKKコンビの親と上級生の父母の反目・協力・苦闘と栄光が詳細に描かれる、ISBN978-4062103046)(脚注では野球バカと表記)。 |
| 『不惑桑田・清原と戦った男たち』(矢崎良一(著)、ぴあ、2008/2、不惑の年(40歳)を迎えたKKコンビと同学年の9人(内プロ経験者8名)にKKコンビに関する取材をしたノンフィクション、渡辺智男、西山秀二、酒井光次郎、小林昭則、高林孝行、大森剛、大塚光二、今久留主成幸、小林至が取材対象、ISBN978-4835616926)。 |
| 『夢のつづき』(佐々木亨・鈴木洋史・瀬戸口仁・田沢健一郎・服部健太郎・山岡淳一郎(共著)、竹書房、2008/5、メジャーに挑戦した10人を取材したノンフィクション、第一章が桑田の章(執筆:佐々木亨)、大正中学・八尾フレンド関係者に小中学時代の桑田を取材、ISBN978-4812434505)。 |
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1968年
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桑田 真澄(くわた ますみ、男性)は、大阪府... |
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1980年
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八尾市立大正中学校に入学し、野球部に所属 |
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