| 宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚、豪族勢力は、宦官を儒教的に穢れた存在として対抗、宦官を濁流、自らを清流と称しての政争が始まる。 |
| 延熹2年(159年)、河南尹李膺が宦官の犯罪を摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件を契機に、宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す者と見做し弾圧を行った。 |
| 李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れずに摘発したことで名声を高める。 |
| その後、清官として名声があった陳蕃と共に幹部官僚予備軍たる太学(大学)の学生たちの支援を受け両者は宦官への糾弾を開始するが、延熹10年(167年)に宦官たちはこれに大規模な弾圧で対抗した(党錮の禁)。 |
| 党錮の禁で逮捕された人数は200人に及び、逮捕者は無罪とされた後も免職され以後の仕官の道が閉ざされた。 |
| この処置は清流派の強い不満の原因となり、清流派の代表である李膺・陳蕃の名声はますます高くなった。 |
| 桓帝崩御後には陳蕃による宦官誅滅作戦が行われたが失敗、再び宦官たちによる弾圧(第二次党錮の禁)が実施され、清流派と宦官の対立がますます深まることになる。 |
| 宦官の専横が後の黄巾の乱の要因となり、豪族と宦官の対立が黄巾後の戦乱の時代を生むことになった。 |
| 桓帝の時代には後漢の滅亡の要因となる清濁の争いの原因が形成された時代である。 |
| 特筆すべき事例として、延熹9年(166年)に大秦(ローマ帝国)国王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節が入朝している。 |
| zh-classical:漢孝桓皇帝。 |
| zh-yue:漢桓帝。 |