| 小説の分野としては、生地である朝鮮をテーマにしたもの、トップ屋としての視点と情報収集力を活かした企業小説、推理小説、風俗小説、時代小説などがある。 |
| 在学中の1952年に『広島文学』に日韓併合による創氏改名を扱った「族譜」を発表、同年本作を収めた短編集で、友人の坂田稔との共著『買っちくんねえ』を自費出版、「族譜」は後に加筆されて1961年に『文学界』に発表される。 |
| 1958年『新思潮』に終戦の日を描いた「性欲のある風景」を掲載、1963年には提岩里事件を取り上げた「李朝残影」を『別冊文藝春秋』に発表し、直木賞候補となる。 |
| 朝鮮、内地に帰って育った広島の原爆、母の経験したハワイ移民という三つのテーマをライフワークとしようとしており、それらを一つにまとめた作品を書こうと、1974年に題を『積乱雲』として資料収集、取材を進めながら執筆を開始していた。 |
| 原爆に関わるテーマの作品としては、1970年「憑かれた女」、1971年「ケロイド心中」がある。 |
| 「ケロイド心中」を『小説現代』に発表した時には、広島県原水協、同被団協、原爆文献を読む会などから、被爆者差別を助長するとの抗議が寄せられた。 |
| これに対して梶山は、被爆者の立場で、実話をモデルにして書いたというコメントを『中国新聞』に掲載。 |
| 何度か抗議の手紙が届いたが、それ以上のことにはならなかった。 |
| 1969年に金井利博が原爆被災資料研究会から『原爆被災資料総目録』を刊行していたのに資金援助をしていたことが、死後明かされた。 |
| また1958年、『新潮』に「地面師」発表。 |
| 1960年『週刊文春』で推理小説『朝は死んでいた』を連載。 |
| 1961年に北里研究所付属病院に入院中から、あずき相場を扱った『赤いダイヤ』を『スポーツニッポン』連載開始。 |
| 続いて酒場で見知っていた当時光文社の種村季弘に後藤明生から紹介されて書き始めた、書き下し長編『黒の試走車』を1962年にカッパ・ノベルスで出版。 |
| 同年には『青いサファイヤ』『影の凶器』『夜の配当』『男の階段』『女の斜塔』と連載を開始、月産1000枚と言われる執筆量となり、数年後には1300枚を記録した。 |
| ルポライターとしての視点、情報収集力を活かした『黒の船渠』『夢の超特急』『小説GHQ』などを発表。 |
| 1967年から翌年に『中間小説誌や娯楽雑誌の発刊が相次いだ際には、その創刊号の多くに小説、エッセイ、ノンフィクションを執筆、「創刊号男」「突破口」と称された。 |
| 執筆誌は『月刊現代』『月刊タウン』『別冊アサヒ芸能』『ビッグコミック』『PocketパンチOh!』『プレイコミック』『小説セブン』『マイウェイ』『別冊サンデー毎日読物専科』『小説エース』『小説宝石』。 |
| 1971年には休筆を宣言し、1972年1年間は月刊誌への小説を休んだが他の執筆は続け、仕事量が減るにとどまり、翌年は元に戻った。 |
| ルポライター時代の1960年、金井利博の依頼で「中国新聞」に頼山陽の青春時代を描いた「雲耶山耶」(くもかやまか)を連載。 |
| また時代小説として、1970年以降『彫辰捕物帖』シリーズ全6巻、「辻斬り秘帖」などを発表。 |
| 「鉄道弘済会のベストセラー作家」とも呼ばれ、作品は常に新鮮な時代感覚に溢れ読書サービスに徹した。 |
| サービス精神の赴くまま材料の仕込みには惜しげもなく金を注ぎ込んだ。 |
| 天性のストーリー・テラーで筆力抜群、印刷屋への発注ミスで8万枚の原稿用紙を購入する羽目になったが10年足らずで使い切ってしまった高橋吾郎「解説」(『狂った脂粉』光文社文庫1987年)、三日二晩で300枚の長編を書き上げる(『ミスターエロチスト』)、短編小説を電話で頼めばすぐに取りに行っても原稿が出来上がっている、原稿を取るために出版社がヘリを飛ばす1968年に大森実の太平洋大学講師で渡米した際に台風で帰国が遅れ、『小説・太平洋大学』の連載第1回の原稿を間に合わせるために船上からヘリコプターで吊り上げて運んだ。 |
| (橋本健午「解説」(『日本一匹狼』角川文庫1980年))、といった伝説まで生まれた。 |
| 後年はエロティシズムへの傾斜を深め、ポルノ作家、性豪作家とも呼ばれるようになる。 |
| 1968年に『別冊文藝春秋』に『ミスターエロチスト』252枚を一挙掲載。 |
| 当時は「なにもあそこまで書かなくても」「サービス精神のいきすぎ」などと言われ、1972年まで単行本化もされなかったが、後に「先駆的作品」「現在の、性を扱った小説の、あらゆる原型がここにある」などと評される。 |
| これは元々有馬頼義に原稿を依頼していたのが締切一週間前に病に倒れたため、急遽梶山に依頼され二日半で書き上げたものだが、以前から構想を温めていことがその後取材ノートから伺われている野坂昭如「解説」(『ミスター・エロチスト』徳間文庫1983年)。 |
| (略)金の動きにもロマンはある」(1966年広島大学懇談会)、「私の小説は、文章はカサカサに乾いていて、手垢がついているけれども、材料にだけは自信がある−−と自慢しておく」(「私の小説作法」)などがある。 |
| 徹底した調査を元にした作品は「調べた小説」などとも言われ、自身ではジャーナリズムとして報道できる限界があるため、事実を小説に仮託して書くという方法としても考えていたという。 |
| 現代の女岩窟王というべき復讐譚『罪の夜想曲』を1973年から『週刊明星』に連載していたが、急死によって72回で絶筆となり、残されたメモを頼りに夫人が結末を加筆して完結された。 |
| 書きかけていた長編『積乱雲』は、10年間に1万2千枚の予定で新潮社から書き下ろしで出版の予定だったが、書き出し部分の遺稿30数枚分が『別冊新評梶山季之の世界』(1975年)に掲載された。 |