| 実家は京都・三条木屋町で割烹旅館『国の家』を経営していたが、後に倒産した。 |
| 戦前より従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属したが、嵐本人が日活に移り寛プロが閉鎖すると、新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。 |
| 多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり、溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画を、と夢見ていた森は失望する。 |
| 映画監督森一生にプロポーズされ、婚約したがその後解消した。 |
| 悪評が立ち、居づらくなったため映画女優を引退する。 |
| 戦前から戦後間もなくにかけて大阪を拠点に活動した。 |
| 終戦後は役者活動に留まらず、進駐軍でジャズなどのアメリカン歌謡を歌うなどの活動も行っていた。 |
| そこで森を見染めた日系アメリカ人の米兵からプロポーズを受け、婚約するも芸能界に未練があった森は決まっていた渡米を拒否し、日本に留まった。 |
| 米兵とは結局婚姻関係を結んでからの破局なのか、それとも婚約のままで終えたのかは明らかになっていない。 |
| その後もミスワカナ・玉松一郎の慰問団に参加するなど芸能活動を行っていたが、1949年の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、京都山科において闘病生活を余儀なくされる(これ以前の1944年戦地慰問先の南京において、肺浸潤を患っている)。 |
| この頃、「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、復帰作となった『エンタツちょびひげ漫遊記』で共演した赤木春恵らもそう信じていたらしい。 |
| 当時すでに結核の特効薬であるストレプトマイシンは発見されていたが、非常に高価であり、病気のため無収入の森には治療を受けることは難しいと思われたが、療養先が知人の縁者であったこともあり、担当医師が闇で仕入れたストレプトマイシンを『モルモット』として森に投与したことで一命を取り留める。 |
| その後、ラジオドラマの仕事をしながら、知人の裏千家千宗室(14代淡々斎)夫人の秘書として勤務する。 |
| ―放浪記との出会い、テレビ出演へ―。 |
| 1956年には朝日放送と専属契約を結び、ラジオでは『東西お笑い他流試合』の大阪方の司会を務めて人気を得た。 |
| さらにテレビでは、関東地方にもネットされた中田ダイマル・ラケット主演のコメディ『ダイラケのびっくり捕物帖』で、武術に長けた与力の娘役を演じ、関東にもその名を知られることになった。 |
| なお、幼少から若手女優の頃は「黒みっちゃん」と呼ばれるほど肌が黒っぽかった肌が年齢を重ねるにつれ白くなっていった(これはマイケル・ジャクソンと同じ尋常性白斑という皮膚病のせいである)。 |
| 1958年に菊田一夫に誘われて芸術座の舞台を踏んだのがきっかけで、翌1959年には東京に活動拠点を移す。 |
| 同年ラジオ東京のプロデューサーで演出家の岡本愛彦と結婚(のちに離婚)。 |
| 結婚当時、相手が5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていた。 |
| 作家の水上勉とも噂があった。 |
| 1961年、恩師である菊田の脚本による芸術座公演『放浪記』にて主役の林芙美子役を好演。 |
| 以後、現在まで公演回数2000回以上を数える森の代表作となると共に、それまで脇役であった森が主演女優への階段を上るきっかけとなった。 |
| 『東芝日曜劇場・天国の父ちゃんこんにちは』(TBS、1966年-1974年)、『時間ですよ』(TBS、1970年-1973年、以後シリーズ化)、『土曜グランド劇場・2丁目3番地』(日本テレビ、1971年)、『銀座わが町』(NHK、1973)、『かくれんぼ』(日本テレビ、1981年)等数多くのテレビドラマにも出演。 |
| 山岡久乃、京塚昌子等とともに日本を代表する「お母さん」女優としてその人気を不動のものとする。 |
| 1974年-1988年までの14年間にわたり、フジテレビの看板ワイドショー番組『3時のあなた』のメイン司会も担当し、これもまた森の代表的な仕事の一つに数えられている。 |
| さらには大阪でのコメディ経験を生かし、ザ・ドリフターズとのコント番組にも長年出演する等、芸域の広さを視聴者に知らしめた。 |
| 『花吹雪はしご一家』(TBS、1975年-1976年)で母子役として共演した西城秀樹から「東京のお母さん」と呼ばれて親しまれ、西城のコンサートにはよくゲスト出演していた。 |
| またジャニーズの大ファンで、特に東山紀之ととても仲が良く、森の右手を握れる男性は東山だけである。 |
| 「絶叫コースターに挑戦したい」と言い、テレビ番組の企画で実際にコースターに乗ったこともある。 |
| 当時80歳、同乗相手は長瀬智也。 |
| 大橋巨泉司会の人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ!!』にも、度々ゲスト解答者として出場していた。 |
| 『クイズダービー』に、森が出場者側(ギャンブラー席)として出演した時(第684回、1989年4月8日放送分)のエピソードである。 |
| CM明けの6問目、初代2枠レギュラー解答者だった五月みどりの曲「恋する蝶ちょ」の歌詞問題で、正解が「男にとまれ」(解答者5人は全員不正解)と司会の巨泉が発表した。 |
| 森は「私は…もしかしたらあの、『ホテルにとまれ』かと思った」とドッキリ発言をしている。 |
| この森の発言には解答者全員のみならず、出場者として出演していたタレントらも大爆笑、巨泉からも「それは過激すぎますよ!」と笑われた。 |
| 1984年11月、紫綬褒章を授与される。 |
| この時、3歳の年齢サバ読みがはからずも発覚するが、当時のマスコミの論調は好意的だった。 |
| 1992年11月、勲三等瑞宝章を授与される。 |
| この頃から体力の衰えを実感し、当時野茂英雄が通っていたジムへ行きトレーナーへ指示を仰ぎ肉体改造に着手。 |
| 毎日欠かさず150回(朝75回、夜75回)のスクワット(実際には、スクワットというよりも軽めの屈伸運動に近いものである)を行いエアロバイクを漕ぐなど筋力強化に励んだ。 |
| こうして、80代に入ってもなお、若々しい容貌と機知に富んだコメントで、幅広い世代に親しまれ続けた。 |
| 2005年11月、文化勲章を授与される。 |
| 女優からの勲章受章者は山田五十鈴以来2人目(杉村春子は辞退)。 |
| 森はこれ以前の数年は、もしやの親授式に備えて文化の日には予定を入れなかったという。 |
| 2008年、『放浪記』の舞台でそれまで行なっていたでんぐり返しをとりやめ、万歳三唱にした。 |
| でんぐり返しの封印と言われている。 |
| この年に唯一存命の肉親であり、長年マネージャーを務めた実妹が死去。 |
| そのショックは大きく、本人は喪を伏せ(発覚したのは翌年の放浪記公演前だった)、気丈に振舞うもあきらかに衰弱した姿が見られるようになり、多数の週刊誌に「森光子の老い」と記事にされるなど、翌2009年の放浪記の公演はおろか森の生命すら危ぶまれる状態にあった。 |
| 親交が深い和田アキ子は森に「森っち、もうええやん。 |
| これまでずっと頑張ったやん」と降板するように進言したという。 |
| ただし、森は「お客様が待ってる」「私の生きがいだから」とそれを拒絶。 |
| 2009年1月、初の著書『女優森光子大正・昭和・平成-八十八年激動の軌跡-』を出版。 |
| 懸念された健康状態も年明け頃から徐々に立ち直り、無事公演は行われ、5月9日の誕生日には『放浪記』上演2000回を迎えた。 |
| また5月11日には河村建夫内閣官房長官により森に国民栄誉賞を授与する方針を表明、5月29日に正式決定し、7月1日に授与した。 |
| これは俳優では初の生前授与である国民栄誉賞の俳優での受賞者は、1984年の長谷川一夫、1996年の渥美清に次いで3人目で、女優での受賞者は森が初めてとなる。 |
| 長谷川、渥美はいずれも没後の受賞であった。 |
| また、女性への国民栄誉賞受賞者は歌手の美空ひばり、漫画家の長谷川町子、陸上選手の高橋尚子に次いで4人目となる。 |
| なお非スポーツ選手で他に生前授与したのは歌手の藤山一郎のみである。 |
| 2010年2月26日には体力を不安視する主治医の勧めもあり、同年5月から6月に東京で行われる予定だった『放浪記』を中止すると発表。 |
| 5月には舞台復帰へ向けて体力作りに励んでいると報じられたスポーツニッポン2010年5月10日。 |
| その後も各種のイベントや芸能関係者の訃報・慶事に対し本人名義のコメントを寄せているが、現在のところ、女優としての活動は2010年1~2月の舞台『新春 人生革命』が最後であり、同年8月放送(収録は7月)のNHKドキュメンタリー「“わらわし隊”の戦争」以降は表舞台に姿を見せていない。 |