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プロフィール
- 森喜朗とは
- 政界入りまで
- ラグビーへの思い入れと挫折
- 早稲田大学雄弁会への入会
- 日本工業新聞時代
- 議員初当選
- 陣笠議員時代から官房副長官就任まで
- 文相時代
- 産学官共同研究の強化
- 臨時教育審議委員会の設置
- その他
- 自民党での地歩
- 自民党の政権転落と奪還
- 資質問題
- 対アメリカ
- 関連サイト
森喜朗(もりよしろう、7月14日‐)は、日本の政治家。衆議院議員。文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、自由民主党総裁(第19代)、内閣総理大臣(第85代・第86代)などを歴任した。退任後は政府特使などとして議員外交の先頭に立って活動した。自民党内では一貫して 岸信介の流れを汲む福田派の後継であり、自身が会長職に在った際は同じ派閥の 小泉純一郎、 安倍晋三などを 支え、退任後も 福田康夫、 麻生太郎(福田派ではないが当時協力体制にあった)などを支援した。
政界入りまで
| 石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜の長男として生まれる。 |
| 小中時代はいじめの常連で何度も職員室に引っ張られたと講演で回顧している。 |
| 中学時代の教師は森が交番に連れて行かれると、警官の前で森を怒鳴り、殴りつけた。 |
| 父親の立場を慮って貰い受けに来た手前、必要だったものらしく、自転車の後ろに森を乗せて帰る途中「頭が痛かったら先生の背中にこすりつけろや」と言ってくれたと言う。 |
| こうしたやりとりから師弟の情愛が生まれ、その教師は後年森が立候補する頃には教組の幹部になっていたが「お前のお陰で教組を辞めなきゃいかんようになった。 |
| 今まで自民党にだけは入れないできたが、とうとう自民党に入れることになってしまった。 |
| 困った奴だ」と森に協力した。 |
| その後恩師は石川県中学校長会の会長になったという中学時代のエピソードについては『月刊自由民主』1986年4月P49,およびP51。 |
ラグビーへの思い入れと挫折
| 本人によれば上述のように勉強は出来なかったが、子供の頃より生涯に渡って強い関心を持ち続けることになったのがラグビーである。 |
| 『森喜朗全人像』『あなたに教えられ、走り続けます』『自民党と政権交代』など森の著書やインタビューによれば、ラグビーに最初に興味を示したのは父の茂喜であり、戦時中トラック島空襲後同島に派遣された際には、部下を引き連れて捕虜と試合に興じて人心掌握にも有効活用したと言う補給も禄にない最前線の孤島であるため、娯楽は非常に限られていた。 |
| 空腹のためラグビーボールも最後には皆で食べてしまった程であると言う。 |
| 戦後の1948年(昭和23年)、喜朗が小学5年生の時分に早稲田大学のラクビー部がOBである父を頼って根上町に合宿にやって来た。 |
| この時の練習試合の様子を見て喜朗はラクビーに興味を持ち、早稲田大学に行ってラグビーをやろうと決意し、練習に励むようになった。 |
| 元々根上町からは学区制の関係でラグビーの強い石川県立金沢二水高等学校には進学できなかったが、金沢市立高岡中学校に越境入学し、根上町から汽車通学していた。 |
| 高岡中学校にはラグビー部がなく、バスケットボール部に所属していた。 |
| 中学校卒業後予定通り金沢二水高校に進学し、ラグビー部に入部。 |
| 煙草を吸って処分された前任者に代わり、父親がPTAの会長であるから事件でぐらついた部を主導せよという理由でラグビー部のキャプテンを務め、北陸三県大会で富山県立魚津高等学校と決勝戦を戦い、準優勝の成績を残した(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)。 |
| その活躍から、父の知人であった当時の早稲田大学ラグビー部監督大西鉄之祐のスポーツ推薦を受けて、早稲田大学第二商学部商学科に入学する。 |
| しかし、当時のラクビー部は全国から強豪選手が集まっており、文化の違いもあって精神的に参ってしまい、胃カタルのため4ヶ月で退部した。 |
早稲田大学雄弁会への入会
| なお、ラグビー退部後も、本来は勉強も優秀だが練習のため授業に出られないラクビー部員達のために教授に掛け合うなど同部との関わりは続き、教授達とも一緒に飲みに行き講話を直に拝聴していた。 |
| 早稲田祭で後輩の学生達に語ったところによれば、森達は部室(会室)には毎日出ていたが、教室にはいかないことから「大学周辺居住者」と呼ばれていたが、必要な単位は4年間で全て取得したと言う |
| 「自民党と民主党と社民党、入れてくれるならどこだっていい」というみたいなことに似ている。 |
| どこでもいいなんていうのは、大学に失礼だと思わないか。 |
| 」と母校への思いを語っている。 |
日本工業新聞時代
| 早稲田大学は1960年卒業し、水野成夫の手引きで産業経済新聞社に入社(配属先は日本工業新聞に勤務し、のちに移籍)。 |
| 雄弁会時代以来の付き合いである牧千恵子と1961年11月に結婚。 |
| 百合丘の公団住宅に当たり、1DKの新婚生活を始めた。 |
| 記者時代は昼夜の別なく取材先を飛び回っており、妻・千恵子によれば、日本工業新聞での担当は自動車や機械などであり、取材先の会社の社長に可愛がられたりもしたのか、情報やニュースもかなり獲得し、1面トップ記事を書いたり、社長賞も貰っている旨を語っている森千恵子「夫・森喜朗人は「愚宰相」というけれど」『THEMIS』2000年7月。 |
議員初当選
| 政治家に転じるきっかけは、農機具メーカー・井関農機の取材中に岸信介側近の衆議院議員・今松治郎と知り合ったことだった。 |
| 井関農機の創業者である井関邦三郎と今松は同郷の同級生であり、邦三郎の息子・昌孝は青年会議所に所属していた。 |
| 昌孝と親しくなった森は、「今松の選挙を手伝ってみないか」と持ちかけられ、承諾した。 |
| なお、牛尾治朗とも昌孝を通じて1963年頃に知り合っている。 |
| 今松の秘書を務めた後、1969年の第32回衆議院議員総選挙に旧石川1区から立候補。 |
| この選挙は10人が乱立する混戦模様で(自民党3、社会党1、公明党1、民社党1、共産党1、保守系無所属1、革新系無所属1、その他無所属1)、森は泡沫候補と見られていた(田中角栄自民党幹事長は森を「泡沫候補」と呼んで公認を与えなかった)。 |
| 自民党の公認は既に満杯だった。 |
| 自民前職2人(坂田英一と井村重雄)が健康上の理由で出馬を断念したが、別川悠紀夫と奥田敬和が新たに公認を受け、森は公認を得られなかったため、保守系無所属で出馬することになった。 |
| 出馬に際し、森は今松の秘書を務めていた縁から、岸信介元首相による応援を岸の秘書である中村長芳を通じて要請。 |
| 岸は森の要請を快諾し、はるばる石川まで応援に駆けつけた。 |
| 60年安保闘争(森は「安保騒動」と呼ぶ)による悪影響を懸念する声もあった。 |
| 森の親族も父と同じく出馬に反対の意見が大勢であったが、選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。 |
| この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。 |
| 当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。 |
| また、根上町内の森町長への信頼感と森を認めてこなかった既存の自民党組織・地方議員や奥田などへの反発から、町内では住民総出で選挙運動に協力する雰囲気となり、昼は老人と子供しか残っていないという有様であった。 |
| 加えて、岸の応援で地元での人気が上昇し、下馬評を覆してトップ当選した。 |
| 森は、無名の泡沫候補に過ぎない自分の応援のためにわざわざ駆けつけた岸に対し、終生恩義を忘れない姿勢を示しており、後年岸の外孫である安倍晋三が首相に就任した際は、後見人として安倍を支えることになる火事の一件と地元の選挙協力については平河卓『森喜朗・全人像』に詳しい。 |
| 岸の応援についての経緯は『自民党と政権交代』で語られている。 |
| 森の当選後、田中自民党幹事長は森を党本部に呼び、金を渡そうとした。 |
| 森が反発すると、二階堂進が「(追加公認の)公認料および貸付金」と説明して、森に金を受け取らせた。 |
| 森は田中の態度を見て、「この人とは絶対に席を同じにはできない」と思ったという。 |
| 帰途福田赳夫邸に寄り、内心資金援助を期待したものの、空振りに終わった。 |
| この選挙では同じ選挙区で奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「森奥戦争」と呼ばれるようになる。 |
| 石川1区では森の追加公認も併せて自民党が議席を独占したが、唯一の前職、桂木鉄夫は落選した。 |
| なお、立候補前より青年会議所についても、地元の小松支部にも代議士になりたい者が何人もいたため最初は完全にライバル視され入れて貰えなかった。 |
| 会議所が企画した催し物でもスピーカーを拉致して話させないようにされたと言う。 |
| それに憤った人達は「青朗会」を立ち上げ、森の選挙運動での中心組織となっていった。 |
| 森が青年会議所に入れたのは国会議員当選後、牛尾の引きによってであった。 |
| それも当初は当選してもまだ小松支部がライバル視故に反対していたところへ「東京で引き受ける」と会頭だった牛尾が啖呵を切って、あわてた小松支部が森を受け入れたという牛尾と青年会議所の話については「森の清談森喜朗ウシオ電機会長牛尾治朗2人そろって團十郎の応援団」『BOSS』2008年9月。 |
陣笠議員時代から官房副長官就任まで
| 当選後は岸の勧めに従い福田派(清和会の前身の紀尾井会)に入会。 |
| 福田赳夫改造内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐した。 |
| 当選から間もない頃、1972年の沖縄返還に先んじて日米繊維協定が締結されると、従来型の繊維産業が集中していた石川県は大打撃を受け、雇用不安なども発生した。 |
| そこで東レが県内に工場を進出させた。 |
| この工場は自動化工場のはしりで規模に比較して雇用吸収力は小さかったことは森も東レ側も互いに理解していたが、それでも経済的には助かる結果となった。 |
| 後年、森は誘致に応じた東レに感謝の言葉を述べている「森の清談(第4回)ゲスト東レ名誉会長前田勝之助苦しい時代を乗り越えたから繊維メーカーは猛者ばかり」『BOSS』2008年5月。 |
文相時代
| 1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣した。 |
| 文部大臣就任直後のインタビューにて、日教組に対しては話し合いは是とするものの、教育の場に政治運動を持ち込むことに対しては対決姿勢を鮮明にしている「新閣僚焦点インタビュー学制改革幅広く検討戦後教育に行きすぎも森文相」『朝日新聞』1984年1月1日「特に大学入試が問題ではないか。 |
| 高校でゆとりある教育を進めようとしても、入試で難問、奇問が出るようではうまくいくはずがない。 |
| 生徒会、スポーツ、ボランティア活動などを評価してもらえないか。 |
| 大学の先生も頭を切り替えてほしい」「教育関係者とはできるだけ話し合っていきたい。 |
| (中略)政治的な動きをされることは容認しえない」などと述べている。 |
産学官共同研究の強化
| 文部大臣の時に諮問機関である学術審議会が「学術研究体制の改善のための基本的施策について」という答申を提出した。 |
| これは産学官共同を強化する内容であり、研究者の育成・支援体制の整備など「頭脳・技術立国」を目指すものであった「「産学官協同」強める技術立国国立大を軸に促進学術審が答申」『朝日新聞』1984年2月7日1面。 |
| 文部大臣退任後も北陸の政財界要人等とこの方向での教育問題に尽力し、6年後の1990年10月、先端科学技術分野における国際的水準の研究を行うための国立大学院大学として、北陸先端科学技術大学院大学の開学に漕ぎ着けた |
臨時教育審議委員会の設置
| 中曽根内閣は教育のあり方の再検討を目玉の一つに据え、「臨時教育審議会」の設置を図った。 |
| これに対して、日教組や社会党は日教組代表を委員に加えるように要求していたが、森は「特定の団体を代表する人を入れるのは適当でない」と答弁し、初期から拒否の姿勢を明らかにした「日教組代表加えず臨教審で文相示唆」『朝日新聞』1984年4月18日。 |
| この委員会は立法措置により根拠を与えることとなり臨時教育審議会設置法案が提出された。 |
| 中曽根内閣は1984年の夏までには成立させることを目標として、趣旨を守りつつこれを通すことが森に課せられた任務となった。 |
| 法案に対して野党は阻止を図ったが、中曽根と森は「柔軟な対応」を取るとして法案の修正には応じるが日教組の参加を認めない点を貫徹することとした「首相、文相が柔軟姿勢確認臨教審法案修正」『朝日新聞』1984年5月8日。 |
| その目標通りに事態は推移し、自民の他当時野党であった公明、民社が修正協議に応じ、7月に日教組を外す方針のまま三党合意が図られ「臨教審法で三党修正案国会報告を盛る」「日教組代表を委員に入れぬ」『朝日新聞』1984年7月6日、8月に法案は成立した。 |
| なお、当時論議となった内容は入試制度、学制、幼保一元化、極端な学歴社会化の緩和などであった「浮かんだ臨教審の課題6・3の区切りも的に改革の行方阻む財政難」『朝日新聞』1984年8月7日。 |
その他
| その他、文相時代には、他大学での履修制度拡充「他大学での履修もっと単位互換実施2割の現状改革」『朝日新聞』1984年10月16日1面単位互換拡大方針を決めた際「"開かれた大学"をめざして大学間の交流と協力を促進する必要がある」と述べている。 |
自民党での地歩
| 1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。 |
| 福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、ネオ・ニューリーダーとしての地歩を固める。 |
| しかし安倍にリクルートの江副浩正を紹介したのは森といわれており(森自身は否定)、晩年の安倍は森と距離を置いていた。 |
| 1990年の第39回総選挙後、第2次海部内閣の組閣人事で、海部俊樹首相は「リクルート関係議員は入閣させない」と公言しているにもかかわらず、安倍は森を入閣候補として推薦した。 |
| しかし、安倍は本気で森を推したのではなく、むしろ森を晒し者にしようとしたのではないかと薬師寺克行は指摘している『森喜朗自民党と政権交代』p295。 |
自民党の政権転落と奪還
| それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣(村山改造内閣)、党総務会長と重要役職を次々と歴任した。 |
| 1993年7月より梶山静六から引き継いで党幹事長を務めた際には、細川内閣が成立し、自民党が野党に転落した中での交代だった。 |
| 細川内閣が成立を目指した、衆議院の小選挙区比例代表並立制導入を柱とする、政治改革関連4法案は、社会党の一部などの造反により否決された。 |
| 自民党内にも、YKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)の了解を取るなどの根回しを行ったが、中曾根康弘らには最後まで知らせなかった。 |
資質問題
| 6月の「無党派層は寝ていてくれればいい」「自民党に投票してくれないだろうから、投票日には寝ていてくれればいいのだが、そうもいかないしな」と述べたのだが、「寝ていてくれればいい」と言う部分だけが誇張されて報道された(『ニュース解説室へようこそ!2008年版』清水書院ISBN:978-4-389-21462-3)発言や、10月にイギリス・ブレア首相との会談における「北朝鮮による日本人拉致被害者を第三国で行方不明者として発見する案の暴露」など数々の発言で、「首相としての資質に欠ける」との批判が各層から噴出した。 |
対アメリカ
| クリントン政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、日本政府としては拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている指定解除の阻止については『時事通信』2006年12月27日、『Yahoo!ニュース』等にも配信なお、マスゲームの歓待を賞賛したことが引き金となってオルブライトはアメリカ国内で世論の反感を買い、訪朝は失敗に終わった重村智計「ブッシュ勝利で苦境に立つ二人の「金」」『中央公論』2001年12月号 |
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1937年
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石川県能美郡根上町(現・能美市)に生まれる。 |
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1950年
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:根上町立浜小学校卒業(プロ野球選手の松井... |
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