| 三重県宮川村にて生まれる。 |
| 父・植木徹誠(1895年1月21日-1978年2月19日)は、真宗大谷派名古屋別院にて僧侶の修行中だった。 |
| 本人が『徹子の部屋』で語ったところによると、植木は大正天皇が崩御した日(1926年)に生まれた(時間は定かではない)が、ちょうど父が体調を崩していたので、叔父・保之助が役所への届けをまかされた。 |
| しかし、叔父が届けを忘れ、翌年ようやく出生届が出されたため、戸籍上は「昭和2年」(1927年)生まれとなったという。 |
| なお、届けが遅れたため、幾ばくかの罰金を徴収されたという。 |
| 植木本人は「三世代に亘ってしまいました」と笑い飛ばしていた。 |
| 本来は『大正15年12月25日』または『昭和元年12月25日』生まれである植木と同じ日に生まれた野球解説者の関根潤三も出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日は1927年3月15日となっている。 |
| 3歳の頃、父親が浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となり移住。 |
| 移住先は、母親であるいさほ(旧姓:小幡)の実家、真宗大谷派西光寺がある三重県度会郡小俣町(現在の伊勢市の一部)の近く。 |
| なお、公式ホームページでは出身地を三重県としている。 |
| また一部の文献では出身地を小俣町や伊勢市としているものもある。 |
| 1939年僧侶としての修行をするべく、東京・駒込の真浄寺へ小僧になるため上京。 |
| 1944年旧制京北中学校卒業後、東洋大学専門部国漢科に入学。 |
| 1946年テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。 |
| 1947年3月に東洋大学専門部国漢科卒業後、東洋大学文学部(旧制)入学後、結婚。 |
| 同年秋にはNHKラジオ『お昼の軽音楽』で『ビロードの月』を歌うが、正規に音楽を勉強したことがないということから、ギターの練習を開始。 |
| その後ジャズに傾倒してギタリストを志す。 |
| 1950年東洋大学文学部国漢科(旧制)卒業(東洋大学の公式サイトや校友会誌などでは『昭和22年3月専門部国漢科卒』という肩書きになっていることから中退という説もある)。 |
| 「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。 |
| 1952年自身のトリオ『植木等とニュー・サウンズ』を山崎唯(p)、大石康司(b)と結成。 |
| 植木のバンドが演奏していると、進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホーズがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。 |
| 1954年オペラ歌手の平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けているときにフランキー堺に誘われ、シティ・スリッカーズに参加。 |
| 1957年3月1日シティ・スリッカーズから谷啓らのいるクレージーキャッツに参加。 |
| その主要メンバーのひとりとして活躍し、ジャズ喫茶などで人気を博す。 |
| 1959年、クレージーキャッツの一員としてフジテレビのTV番組『おとなの漫画』に出演。 |
| 1961年、やはり、クレージーキャッツの一員として、日本テレビの番組『シャボン玉ホリデー』に出演、「お呼びでない?」など歴史に残るギャグで爆発的な人気を得る。 |
| 1962年、古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に出演し、大ヒット。 |
| 以降、「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演。 |
| 『スーダラ節』、『ドント節』をはじめ数々のコミックソングをヒットさせた。 |
| 1984年、石井聰亙監督の、過激なコメディ映画『逆噴射家族』に出演し、怪演ぶりを発揮。 |
| 健在ぶりをアピールする。 |
| 1986年『新・喜びも悲しみも幾歳月』で、キネマ旬報助演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、毎日コンクール助演男優賞を受賞。 |
| 1986年主演ドラマ『名古屋嫁入り物語』放送。 |
| 1998年まで計10作作られる人気シリーズに。 |
| 1990年自身の企画で、ヒット曲をメドレーにして歌った『スーダラ伝説』を発売。 |
| 話題を呼び、この年の第41回NHK紅白歌合戦に1967年以来の出場を果たし、歌手別最高視聴率56.6%を叩きだした。 |
| さらにオリコントップ10入りも果たすという大記録を打ちたてた。 |
| その余波で高額納税者番付・芸能人部門でもトップ10入りを果たし、さらに記録を作った。 |
| 不動産売却以外で、還暦を過ぎてのランクインは他に例が無い。 |
| 1993年11月3日紫綬褒章受章。 |
| 1999年4月29日勲四等旭日小綬章受章。 |
| 1997年連続テレビ小説『甘辛しゃん』に出演中の頃から肺気腫を患う。 |
| 2003年頃から容態は悪化し出し、体力低下のため舞台公演が出来なくなる。 |
| 2006年12月21日朋友である青島幸男の通夜に、酸素吸入器をつけて参列。 |
| これが公の場に出た最後となる。 |
| 2007年3月27日午前10時41分肺気腫による呼吸不全のため都内の病院で死去、{{citeweb。 |