| 1986年-福岡競艇場でデビュー。 |
| 1989年-選手生活3年目の1月16日、桐生競艇場でのレース中に転覆した際、後続艇のプロペラで顔面を切り刻まれ、全治5か月、傷の縫合に75針を要する重傷を負う。 |
| 半年後、レースに復帰するが、負傷した競艇場での復帰を避ける選手がほとんどの中で、父親の進言や自身を奮い立たせる意味を込め、復帰戦の場として桐生を選んだ。 |
| この経緯から「不死鳥」の異名が植木に与えられることとなり、1990年代後半に放映された競艇のテレビコマーシャルでも「平成の不死鳥、植木通彦」というナレーション、テロップで紹介された。 |
| 1990年-唐津競艇場で開催された、新鋭リーグ戦で初優勝を飾る。 |
| 1992年-福岡競艇場で開催された地区選手権競走(九州地区選手権)で初のGI優勝。 |
| 同時に翌年勝つ総理大臣杯競走の出場権を手に入れる。 |
| 当時「競艇選手の旬」強さのピークは40歳代と言われており、笹川賞競走とグランドチャンピオン決定戦競走でSG連覇を成し遂げた中道善博、賞金王決定戦を制した“モンスター”野中和夫も40歳代のベテランであった。 |
| 植木とともに世代交代の嵐を起こした服部幸男は平和島競艇場の全日本選手権競走で史上最年少SG優勝を果たし一歩早く注目を浴びている。 |
| 1993年-戸田競艇場で開催された第28回総理大臣杯競走でSG初優出・初優勝。 |
| SG優勝戦でモンキーターンを使い勝利したのは植木が初めてである。 |
| この優勝戦にはモンキーターンの創始者である飯田加一も乗っていた。 |
| 当時“モンキーターン”の呼び名はまだ定着しておらず、実況アナウンサーは“フロンティアターン”と呼んでいた。 |
| 一方、植木のことはすでに“不死鳥”(フェニックス)と実況で呼ばれている。 |
| この総理杯制覇をきっかけに「10年連続賞金王決定戦出場」、「5年連続SG制覇」の偉業を成し遂げることになる。 |
| この年は野中が圧倒的な強さを見せた年で、6度目の笹川賞V、獲得賞金第1位で決定戦進出し優勝、賞金王史上初の連覇を達成している。 |
| 1994年-児島競艇場のモーターボート記念競走で前年総理杯以来、1年半ぶりにSG優出し2着に入る。 |
| 勝ったのは艇界屈指のインファイターで知られる地元のベテラン関忠志であった。 |
| つづく常滑競艇場で開催の全日本モーターボート選手権競走もで優出、優勝しダービー王となる。 |
| 年末、植木は勝てば公営競技初「2億円レーサー誕生」の位置で賞金王決定戦に進出。 |
| “モンスター”野中にマークされ偉業達成はならなかった。 |
| 野中が植木に勝たせないレースをすると考えた中道が、その展開をついたと云われる“テクニシャン”中道らしい勝利である。 |
| 決定戦で敗れた植木であったが年間では賞金王に輝いている。 |
| 翌年「オレが植木だ!」の台詞のTVCMが一年間流された。 |
| 1995年-この年のSG戦線も、50歳前後のベテランの活躍が目立っていた。 |
| 野中がグランドチャンピオン決定戦競走(桐生)を制しSG全冠制覇(当時)を達成、モーターボート記念競走(三国)は中道、全日本モーターボート選手権競走(丸亀)は地元の安岐真人が制していた。 |
| 年末、住之江競艇場で開催された第10回賞金王決定戦、植木は5号艇から奇襲の2コース進入、1マークはイン中道に対してマクリを放つが中道も受け止め凌ぐ。 |
| ターンマークの度に順位が入れ替わる死闘を演じ、2人は併走でゴール、わずかの差で植木が20代で初の賞金王覇者となった。 |
| この中道善博との艇史に残る死闘は今なお語り継がれる名勝負である。 |
| 賞金王を制した植木であるが、総理杯と笹川賞を制して史上9人目のSG連覇を成し遂げた服部幸男が賞金王に輝いている。 |
| 服部も翌年のTVCMが作成され「水の上では先輩も後輩もない!」と当時の世代抗争を匂わす台詞であった。 |
| 1996年-春の総理大臣競走(平和島)は前年末の死闘の相手中道が優勝。 |
| 夏、植木は当年新設のオーシャンカップ競走(住之江)で優出。 |
| 1号艇からインに入るが、3度目のSG全冠制覇に燃える野中和夫の2コースまくりに散る。 |
| 続く、モーターボート記念と全日本選手権競走でも優出「すべて1号艇で3着」であったが、再び「2億円レーサー」を狙える位置で年末を迎える。 |
| 賞金王決定戦は戸田競艇場で開催、前年同様「中道VS植木」「ベテラン対植木」のシリーズになった。 |
| トライアル初日、中道のマクリに植木が抵抗し大競り、植木は3着、中道は6着に沈む。 |
| トライアル2日目は別々のレースで2人とも鋭発STからマクリを決めて1着。 |
| トライアル最終日は、中道が1着、植木は3着にまとめる。 |
| 中道・植木どっちが勝っても2億円レーサーが誕生する状況での前日インタビューで、中道は「植木には絶対マクらせない」と言うと、植木は「それだけ言われるのは本望です」と応えた。 |
| 決定戦は2コースからマクリを打った安岐の上を植木が捲くって決着。 |
| 植木がベテラン勢をモンキーターンで総マクリにする1マークは世代交代を象徴するシーンと言われる。 |
| この優勝で、公営競技初の年間獲得賞金2億円プレーヤーとなり、そのニュースは翌日のデイリースポーツの表一面を大きく飾った。 |
| 翌年のTVCMでの決め台詞は、「俺には、走ることしかない!」。 |
| 1997年-前年のオーシャンカップ競走から継続していたSG連続優出を常滑競艇場で開催の笹川賞競走優出で6に伸ばす。 |
| 優勝戦は6号艇から4コース進入「絞り捲くり」を放ち強さ印象づける優勝を飾り“新艇王”と呼ばれるようになる。 |
| 地元若松競艇場でのモーターボート記念競走でも優出、植木・田頭実・今村暢孝の地元三人衆と安岐が激しい進入争いを演じ、安岐・今村の2人が周り直す異例の進入になった。 |
| 植木ら内寄りが深くなり5コースから安岐がマクリ差して「SG最年長優勝」を果たしている。 |
| 年末、獲得賞金一位で賞金王決定戦に進出。 |
| 決定戦の1号艇はインの鬼西島義則で、インは不動と思われたが6号艇の今村豊が奇襲の前づけでインを奪取、3号艇だった植木は5コースから攻めたが展開がなかった。 |
| 展開を突きマクリ差しを決めたのは大外の服部幸男で、2連単で97倍を超える大波乱となった。 |
| 1998年-丸亀競艇場の総理大臣杯で1号艇で優出、前年覇者の西島義則にイン強奪され逃走を許す。 |
| その後、宮島競艇場のグランドチャンピオン決定戦優出などで賞金を加算、賞金王決定戦に出場したが、4年連続で駒を進めていた決定戦には届かなかった。 |
| 決定戦を制したのは「デビュー節で優出」の曰くを持つ“怪物くん”太田和美であった。 |
| 艇界は「西高東低」と言われていたが、この年は、山崎智也が地元桐生で笹川賞、長岡茂一も地元多摩川でモーターボート記念競走、濱野谷憲吾が全日本選手権競走、江口晃生が当年新設の競艇王チャレンジカップで優勝し関東勢が活躍した。 |
| 1999年-植木は児島競艇場の総理大臣杯までにF2(フライングが2コ)ながら優出。 |
| 植木にとって児島は、SG3優出と自身最後のG1Vを含む3度のG1優勝の好相性水面である。 |
| 植木の賞金王での抽選運の悪さは有名で4枠なら良いほうであったがレースは大外進入になり展開がなかった。 |
| 世代交代が進み、ベテランのSG優出はオーシャンカップ競走(若松)の黒明良光や競艇王チャレンジカップ競走(平和島)の安岐真人等に留まっていた。 |
| 後に中道は「2年連続で賞金王に乗れなかったらやめようと思っていたが、前年の賞金王シリーズを勝ってSG優先出場権が手に入ったのでもう一年続けられた。 |
| 2000年-SG優出するたび「今度こそ」言われるが、優勝には縁がなかった時期である。 |
| グランドチャンピオン決定戦競走(下関)を制した西島義則が、地元・宮島のオーシャンカップ競走でSG連覇を狙っていた。 |
| 2001年-唐津競艇場で開催された第11回グランドチャンピオン決定戦競走で4年ぶりのSG優勝を飾る。 |
| この大会は寺田千恵が女子選手として艇界史上初めてSG競走のファイナリストに名を残した大会でもある。 |
| 植木と上瀧はライバル関係とされ、植木は96年地元福岡での全日本選手権競走で上瀧と競り合い死闘の末に敗れたリベンジを上瀧の地元で果たした形になった。 |
| 年末の賞金王決定戦はこの年SG優出を重ねた田中信一郎が地元住之江でイン逃げでSG初制覇しているが、このレースで山崎智也が決定戦史上初のFで大返還となった。 |
| 若松競艇場でのオーシャンカップ競走で地元SG初V、イン逃げでのSG制覇も初である。 |
| 津競艇場での競艇王チャレンジカップを賞金王決定戦勝負掛けの5人を相手にイン逃げ完勝、自身初の年間複数回SG制覇を記録。 |
| さらに住之江競艇場で開催された第17回賞金王決定戦も、前ヅケしてきた“王者”松井を内に入れ、外からマクってきた田中信一郎制し、4コースから先マクリを放って快勝、6年ぶり3度目の賞金王に輝く。 |
| 賞金王決定戦は獲得賞金1位で出場した者が決定戦を制することは難しく、獲得賞金1位の者の優勝は93年の野中和夫と02年の植木を除いて例はない。 |
| 2003年-年初は3億円レーサー誕生も間近との期待もあったが、不調に怪我もあり全日本選手権競走までSG優出は無く、賞金王11年連続出場のために「優勝」条件であった競艇王チャレンジカップ競走も負傷帰郷で記録は途切れることになった。 |
| 2004年-地元福岡の全日本選手権競走で優出、インから逃げた田頭実と地元ワンツーを決める。 |
| 2005年-昨秋からの好調を持続し常滑競艇場で開催された笹川賞競走でインから逃げて2年半ぶりのSG優勝。 |
| 2006年-尼崎競艇場で開催された「競艇ニュース杯」(一般戦(タイトル戦))で優勝し通算1,500勝を達成。 |
| 最後の地元SG出場となった福岡での全日本選手権競走では、予選3位の好成績で予選通過を果たすが、準優は2号艇坪井康晴と1着争いの大競りの間隙を6号艇魚谷智之に突かれ3着と惜敗し優出はならなかった。 |
| 好調を維持し丸亀競艇場で開催された競艇王チャレンジカップでも予選2位通過・準優1着を決め、賞金王決定戦出場には2着条件で優勝戦を迎えたが、惜しくも3着となり決定戦出場はならなかった。 |
| 2007年-年始尼崎競艇場で開催された周年記念競走「近松賞」で優出3着、2007年SG初戦・総理大臣杯直前に三国競艇場で開催された周年記念競走「北陸艇王決戦」で同じく優出3着と、昨年秋から続くそこそこの好調ぶりを見せ、総理大臣杯へと臨んだ。 |
| 平和島競艇場でのSG第42回総理大臣杯、SGでは珍しく超抜モーターを手にした植木の豪快なイン逃げで誰も捲ることが出来なかったため、平和島競艇場審判課・松永良一アナ(通称:ベイ吉)に『ウエキング』という愛称を名付けられ、予選トップ通過・準優を見事なイン逃げで優出を果たすが1号艇で出走した同大会優勝戦にて、インスタートから僅かコンマ01ではあるが痛恨のフライングを犯し売上の9割以上にあたる17億4522万7700円という記録的な大返還の元凶となってしまった。 |
| このフライングにより、植木は今後1年間賞金王決定戦競走を除く全てのSGへの出場資格を失い、予定されていた住之江でのSG笹川賞競走の出場・初日ドリーム戦(4号艇)出走も取り消されることとなった。 |
| (皮肉にもその笹川賞競走で優勝を果たしたのは、同年総理杯で優出3着、植木の代役としてドリーム戦に繰り上がり出走となった同郷の後輩である強豪選手・瓜生正義であった。 |
| 休み明けの復帰戦は奇しくも(自身最後のSG出場となった地)平和島競艇場での「サントリーカップ」(一般競走)であった。 |
| 平和島での復帰後、次に出場した鳴門競艇場での「ヤクルト杯競走」(一般競走)(惜しくも次点で優出ならず)の終了後、翌7月19日に突然の引退を宣言した。 |
| 7月20日、東京都港区のホテルパシフィック東京で行われた永年功労者祝賀会終了後(植木は現役勤続20年の表彰を受けた)に同ホテルにて引退会見を行い、正式に現役引退を表明した。 |