| 植村正久の神学の特徴は、キリスト中心であり、神であるキリストを告白し、その恩寵に終始することであったといわれる宇田進『福音主義キリスト教と福音派』p.158いのちのことば社。 |
| これは「キリストとその事業」、「海老名弾正氏の告白を紹介す」、「福音主義の信仰」でかなり明確にされているが、植村の贖罪論は神学的に厳密ではないと指摘されている。 |
| 植村正久は「キリスト教思想の争い」(『著作集』4)でキリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)を批判した。 |
| 根本主義の訳も植村によるものであり、『宣言若しくは信条』の中でファンダメンタリズムの訳語として根本主義の語を使った。 |
| 植村はこの『宣言若しくは信条』で、「キリストの死はいかなる意味において、いかなる仕方でその効力を現わすものであるか。 |
| これらの問題に立ち入り、詳細なる説明を試みんとすれば、或いは政治的贖罪説も出よう。 |
| 或いは道徳的感化説も唱えられるであろう。 |
| 或いはいわゆる根本主義者のごとき説を主張するものも起ころう。 |
| ・・・・一教会の意見として宣言書を発するに当たり、或る一つの贖罪説をその項目に加うることは穏当ではない。 |
| 況やこれを信条の中に加うることは大いなる間違いである。 |
| 」と述べ、キリスト教根本主義の基本信条に反対し、聖書の教理である「代償的贖罪」を教会の信条の中に含めることは、間違いであるとした。 |
| また言語霊感と聖書の無誤性も「文字崇拝」と呼んで拒否した。 |
| 植村は「神学上の波瀾」で「聖書は・・いかなる意味において、神の啓示なりと云うや。 |
| 聖書には徹頭徹尾豪末の誤謬も無しとするは教法改革後に起こりたる一種の妄説に過ぎざるなり。 |
| 近時神学上の波瀾はこの妄を排して、聖書は神の顕示を記載するものなり。 |
| 神の言は聖書の中に在り(全然これを神の言とするにあらず)とするの方向を取りて進み行くもののごとし。 |
| 一点一画にても誤り無しとは、一派の論者がもって聖書を賛美せんと欲するの言なり。 |
| 余輩はこの説をもって甚だ聖書に不忠なる者なりと云わんと欲す。 |
| 岡田稔は植村が確かに偶像教徒からキリスト教徒に回心した人物であるが、彼の聖書観には欠陥があったと指摘している。 |
| 植村正久『宣言若しくは信条』岡田稔『改革派世界』「植村・高倉神学の行方」岡田稔『キリストの教会』宇田進『福音主義キリスト教と福音派』。 |
| 「信条制定に関する意見」で「アウクスブルク、ドルトもしくはウェストミンスターの会議定盟を必要とするものにあらざるなり。 |
| 今の日本は開国以来僅々30年なりといえども、実に第19世紀の末にあたれる文明をもって自ら任ぜんと欲するものなり。 |
| 」「日本国キリスト教徒は、その信条を成るべく自由寛大にして十分に進歩の余地を与え、協和の根基を固うせざるべからず」と述べて、無教派、簡易信条主義を唱えた。 |
| 明治学院で教鞭をとっていた植村は系統神学の教科書として、アメリカにおける最初の自由主義神学(リベラル)の立場に立つ神学書として知られる、W・クラークの『基督教神学概論』を使用した。 |
| この本は聖書の高等批評を認め、進化論を取り入れていた。 |
| このため聖書主義の立場をとる南長老ミッションのフルトンと袂を分かつことになり、植村は1904年に東京神学社を設立した。 |
| 中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社p.37。 |
| 上流階級、中流階級、ホワイトカラー層中心の教会を形成した植村正久は「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」と言って下層階級、ブルーカラー、肉体労働者層を排除した季刊『at(あっと)』15号「特集賀川豊彦その現代的可能性を求めて」太田出版。 |
| 植村正久の師であるサミュエル・ロビンス・ブラウン宣教師も「伝道は急務である。 |
| しかし無学な者が伝道するのは害がある」との持論を持っていた。 |
| 自ら牧する一番町教会及び日本基督教会大会の自律、独立を妨げる恐れのあるものは一切を排する植村を、戦前日本最大のオピニオンリーダーであった徳富蘇峰は「近代においては福沢諭吉以上の人物だが、ある一点においては頑なに過ぎる」とその欠点を惜しんだ『植村正久とその時代』。 |
| 日本ホーリネス教会の創設者で監督である中田重治を山師と呼んで嫌っていた。 |