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楊堅
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541年
604年
北周
隋
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プロフィール
楊堅とは
出生
実力をつける楊堅
皇帝として
楊堅の死について
后妃
子
女
楊堅(ようけん、541年7月21日-604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日-604年8月13日)。小名は那羅延。諡は
文帝
、廟号は高祖。第2代皇帝
煬帝
の父。
出生
楊堅は、北周の大将軍の楊忠と呂氏の間に生まれた。
楊氏
は後漢の楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした。
しかし、漢族ではなく北方異民族の普六茹氏の子孫アーサー・F・ライト『隋代史』(法律文化社)P64は、普六茹をモンゴル語で柳の一種(楊)を意味する「ブルスカン」の転じたものとみる。
姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局、2007年)P72-73は、
楊氏
(普六茹氏)は雁門茹氏、つまりは茹茹(蠕蠕、柔然)の後裔とみる。
という説もある。
『隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して非常に興味深い話を載せている。
それは、楊堅が生まれたのは、541年(大統7年)6月13日であり、生まれた場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であったというものである。
しかも、その幼名は
金剛力士
をあらわす那羅延であったというのである。
ただ、この時代それほどの仏教
信者
でなくとも、名前に仏教語を使用するのは、ごくごく一般的なことではあった。
しかし、楊堅の場合はそれだけに滞まらず、乳母役を引き受けて彼を養育した女性は智仙という尼僧であったという。
このような事から、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。
また、初唐の護法僧法琳の『
弁正
論』によると、その般若寺は北周
武帝
の廃仏によって廃毀されてしまったが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしんだのと、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。
実力をつける楊堅
楊堅は、14歳のとき、京兆尹の薛善に召されて功曹となった。
15歳で父の功績により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司となり、成紀県公に封ぜられた。
16歳で驃騎大将軍に転じ、開府儀同三司の位を受けた。
北周の
明帝
が即位すると、右小宮伯となり、大興郡公に進んだ。
武帝
が即位すると、左小宮伯に転じ、隋州刺史として出向し、位は大将軍に進んだ。
父の楊忠の死後、隋国公の爵位を嗣いだ。
北斉の平定にも戦功を挙げ、位は柱国に進み、定州総管に任ぜられた。
のちに亳州総管に転じた。
578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の
宣帝
の皇后として
立て
させ、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。
579年、大後丞・右司武となり、大前疑に転じた。
580年5月、楊州総管となるが、
宣帝
が死去したため、楊堅は
静帝
の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。
6月以降、
尉遅迥
・
司馬消難
・王謙らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。
9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・隋王に上った。
翌581年2月、
静帝
から禅譲させて皇帝に即位し、隋王朝を開いたのである。
後に楊堅は
静帝
を初めとする北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにした。
皇帝として
楊堅は大興(後に長安)を都として定めた。
そして587年には後梁を、589年には陳を滅ぼして、晋以来約300年に亘り、乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功した。
598年に高句麗と第1次麗隋戦争を行った。
楊堅は内政にも力を注いだ。
まず、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。
また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けたのである。
さらに貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとしたのである。
また、仏教の興隆にも尽力した一代の名君であった。
その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられるほどである。
楊堅の死について
楊堅の長男の
楊勇
が
皇太子
に立てられていたが、独孤皇后や
楊素
らの画策で廃嫡され、次男の
楊広
(後の
煬帝
)が代わって太子に立てられた。
604年、楊堅は仁寿宮で病の床についたが、
楊広
が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたことを、難を逃れた夫人から直接聞いて、「畜生になんで大事を託せようか。
独孤(皇后)がわしを誤らせたのだ」と言い、「我が子を呼べ」と叫んで、
楊勇
を呼び出そうとした。
その直後に楊堅は亡くなった。
病床の楊堅が、
廃太子
楊勇
を呼び出そうとしたことを柳述・元厳が
楊素
に報告し、
楊素
が太子
楊広
に報告すると、
楊広
が
張衡
を楊堅の寝殿に派遣し、夫人や後宮の侍従が別室に離れた直後に、楊堅は亡くなったとする。
以上の説は、
宮崎市定
が『隋の
煬帝
』(中公文庫)で説くように、
煬帝
の暴君伝説がさまざま作られるなかで成立した部分が多いようである。
唐初に成立した『隋書』では、「本紀」ではなく「列伝1」「后妃伝」に記されている。
后妃
宣華夫人陳氏(
後主
の末妹)。
子
廃太子
楊勇
(房陵王)。
晋王
楊広
(
煬帝
)。
蜀王楊秀(庶民に落とされた)。
漢王楊諒(庶民に落とされた)。
女
楽
平公
主楊麗華(北周
宣帝
の皇后)。
襄国公主(李長雅の妻)。
広
平公
主(宇文静礼の妻)。
蘭陵公主
(字は阿五、柳述の妻)。
楊堅 - Wikipedia
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