| 最初、孝廉に挙げられた上で、茂才に推挙された。 |
| さらに三公の府からも招かれたが、出仕しようとしなかった。 |
| 熹平年間に車での迎えに応じ、議郎となり、侍中・京兆尹を務めた。 |
| 宦官の王甫が私腹を肥やしていることを司隸校尉の陽球に告発し、陽球は王甫の一族を捕らえて処刑したため、天下から称賛された。 |
| 侍中・五官中郎将となった後、穎川・南陽太守を務めた。 |
| その後、再び中央に戻り侍中に再任され、永楽少府・太僕なども務めた。 |
| 家学「欧陽尚書」を習得し教授した。 |
| 朝廷内において、東観(漢の国史編纂室)で馬日磾・盧植・蔡邕らと同僚だったこともある。 |
| 中平6年(189年)、董卓の専横が始まると、司空・司徒となった。 |
| 関東の諸侯が挙兵すると、董卓は長安への遷都を実行に移そうとした。 |
| 楊彪は盤庚の悪政の先例を引くなどしてこれに徹底的に反対した。 |
| これは董卓の怒りを買い、董卓は天候の不順を理由に、司隸校尉の宣播に命じて楊彪ら反対者をすべて罷免させた。 |
| 後に、光禄大夫として復帰して大鴻臚となり、さらに少府・太常になるが、病気により辞職した。 |
| 後に京兆尹として復帰、光禄勲となり、再び光禄大夫となった。 |
| 後に司空となったが、地震が起こり免職となった。 |
| 初平元年(194年)、太尉・録尚書事となり、李傕・郭汜らが争う中、一時は殺害されかけたが何とか逃れ、献帝を奉じ長安を脱出し、洛陽まで逃れた。 |
| 洛陽への遷都が成ると尚書令とされた。 |
| 建安元年(196年)、献帝は曹操に迎えられ許に都を移した。 |
| この時、献帝の側近集団は、董承以下楊彪も含め、曹操の献帝擁立及び許への遷都を望んでいなかったこともあって、曹操は楊彪を警戒していた。 |
| さらに曹操が天子に拝礼した際、楊彪が色を作したので、曹操は暗殺されるのではないかと恐れた。 |
| やがて、曹操は袁術と姻戚関係にあったことを理由に楊彪を処刑しようとした。 |
| しかし孔融らが弁護したため、助けられた。 |
| 王沈の『魏書』によると、袁紹が楊彪や孔融を処刑するよう命令したこともあったといわれる。 |
| ただし、『陳琳集』の檄文にあるように、それ以前に楊彪は曹操に嫌われていた。 |
| 建安4年(199年)、太常として復帰したが、建安10年(205年)に辞職。 |
| 建安11年(206年)には曹操の命令により恩沢侯が廃止されたため、父の代に得た爵位を失った。 |
| 楊彪は後漢の命運が尽きたと判断し、足が曲がらなくなったという理由で二度と参内しなくなった。 |
| 息子の楊修は曹操に仕えていたが、あるとき曹操の不興を買って処刑された。 |
| 曹操はその後楊彪に面会を求め、楊彪が痩せてしまった理由を尋ねたところ、楊彪は金日磾の明が自分にはなかったと心境を説明した。 |
| 曹操はこれを聞いて思わず態度を改めたという。 |
| 曹丕(文帝)が禅譲により魏の皇帝として即位すると、楊彪を召しだして三公の一つ太尉に任命しようとしたが、楊彪はかつて後漢の三公を務めたが、世の乱れを正すことが出来なかったことを理由にこれを断った。 |
| 「徳高き老人」として表彰された上で光禄大夫に任命され、さらに几杖を与えられるなど特権待遇を与えられた。 |
| 225年、84歳という高齢で死去した。 |